「人生の本舞台は常に将来に在り」とは小泉純一郎氏が好んで使う尾崎行雄氏の言葉だ。

 小泉純一郎氏が『脱原発』を合言葉に細川護熙氏を担いで東京都知事選に参戦したのは記憶に新しい。ただ結果は残念なことに第三位と惨敗したが、それに挫けることなく小泉氏は『脱原発』の志を貫こうとしている。その志や賞賛に値する。
 そのために財界が用意した政界引退後の座り心地の良いシンクタンク顧問の椅子から降りたという。他に二人の顧問(元トヨタ社長の奥田氏と評論家田中直樹氏)と三頭立てのシンクタンクとして報酬は年1000万円だったという。なるほど財界はこのようにして在任期間中に自分たちに奉仕した政治家や評論家たちを厚遇することによって、現役の政治家たちに見せ付けて骨抜きにしているのだろう。

 憲政の神様といわれた尾崎行雄氏は「人生の本舞台は常に将来に在り」と警句を発して、政治家が目先の利益に惑わされることを戒めていた。官僚や政治家が権力をほしいままに行使して議会を蔑ろにしてはならない。国民の代表として国民に負託された権利の行使をすべき場所は議会にある、というのが尾崎行雄氏の『憲政の神様』たる所以だ。
 当然、先の衆・参国政選挙で時期は明言しなかったものの野党と同様に『脱原発』を掲げていた自民党が突如として原発を基礎的な発電装置だと主張して原発再稼動に方針転換した。その背後には原発をこのまま再稼動しなければ原発は廃炉しなければならず、当然未償却算を一括減価償却しなければならない。それが企業会計原則に基づく会計処理だが、電力各社はまったく非常識な『総括原価主義』を採用しているため、廃炉を決定しても直ちに電力各社が債務超過に陥ることはないかも知れないが、それでも原子力ムラを飼う必要がなくなった電力各社による原子力推進機関や幇間・政治家や文化人たちを厚遇し続ける必要がなくなる。彼らにとって重要なのは未来の地球環境ではなく、生きているうちの目先十年単位の自分のポケットに入る利益だけだ。

 年金支給開始時期に関して75才も選択肢に入れよう、との議論が浮上しているという。そうすれば早くから受給している人たちよりも40%以上も年間受給年金額を引き上げようというのだ。しかし75才からの年金受給を選択できる人たちとは一体どんな人たちなのだろうか。
 現役退職後も一定額以上の高給を保障されている人たちだろう。それも75才まで保障されているとなると民間企業では無理だ。小泉氏がいたようなシンクタンクでペラペラと口から出任せの御信託を垂れて、それを聴衆が有難く拝聴する講演会を年間何回かこなす『特殊法人』か、それこそシンクタンクなどの顧問の椅子が用意されている特別な人たちだろう。そうした椅子を卒業した後に手厚い年金を手にできる新制度は特別な人たちにとって有難い制度だろう。さすがは官僚たちの思いつく話だけはある。

 年金などの社会保障は『負担は応能で、支給は一律』というのが大原則だ。だから支給開始時期をこれ以上引き上げる必要はない。ただ年金とそれ以外の所得が年間勤労者平均給与を超えたら、その越えた部分の年金をカットすれば良い。
 高齢者に高給は必要ない。すでに子育ても終わり住宅ローンも終わっている。医療費は1割り自己負担で済む。勤労者の平均年収ほどもあれば過分ではないだろうか。年金受給者が毎月のように海外旅行している、というのは異常だ。海外旅行は若い人たちにこそ行って、視野を広げて頂きたい。そうした留学の機会を広げる方向に高給年金は一部カットして廻すべきだ。この国はジリ貧に陥っているにも拘らず、そうした深刻な事態が徐々にしか広がらないから気付かないのだろうが、こうした閉塞の打破には未来への投資こそが必要だ。国家にとって未来への投資とは出生率を引き上げる子供手当てや各分野で国家を担う若者の育成に予算を投入することだ。国家が未来への投資を怠ると衰退するしかない。それは企業にとっても同じことだ。派遣やパートへの切り替えは短期的に人件費の削減になっても、長期的には企業内人材の枯渇に繋がる。やはり未来への投資を忘れた目先の経営に明るい未来は拓けない。竹中氏たちの新自由主義者たちの世迷い言葉に騙されてはならない。日本は終身雇用制度の時期に高度経済成長を実現したことを忘れてはならない。


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