No title

 司馬遼太郎は長州が嫌いだったようだ。なぜそう思うかというと、彼の幕末を描いた諸作品で長州か長州人かを多く扱っているが、その作中での「長州」の扱われ方が平等を欠いていると思われるからだ。
 たとえば「世に棲む日々」の中で長州人は利よりも理で動くと考えているようだ、として「長州人のガキっぽい屁理屈」を際立たせている。吉田寅次郎も司馬遼太郎にかかれば時代錯誤の来嶋又兵衛と同等の扱いだ。

 ただ長州藩の桎梏と関わりのない村田蔵六を扱った「花神」では長州藩重役の頑迷さと比較して、彼に隋藩を乞うた桂小五郎や伊藤俊輔を好意的に描いている。その代わり「竜馬がゆく」では坂本竜馬を等身大以上に巨大化して描き、その後から今日に到る竜馬ブームの先鞭を付けた。
 そうした司馬遼太郎の「長州嫌い」は少なからず彼の経歴と関わりがあるのではないかと秘かに思っている。かれは作家になる前は新聞記者をしていた。つまり戦後GHQに思想統制と検閲を経験した新聞記者の後塵を拝していた世代の空気を吸っていた。

 GHQは戦前、とりわけ日本が富国強兵へと突き進んだ明治的な部分を徹底して破壊し日本国民の頭脳の中から一掃しようとした。GHQが憎むべきは明治政府を主導した長州と薩摩の人脈と伝統だった。
 長州と薩摩を比較するなら利により藩論を旋回させた薩摩はまだしも理解できるが、江戸時代を通じて関ヶ原の合戦で敗れ百二十万石の中国随一の雄藩から防長二州三十六万九千石に封じ込められた怨念を持ち続け、二百有余年も倒幕の意思を歴代受け継いで、ついに倒幕の先頭に立った長州藩をGHQは最も恐れた。

 なぜならGHQの主体をなす米国は徳川家康以上の非情さで日本国民を虐殺し、戦後世界で覇権を握るべく日本列島を太平洋の防波堤に擬していたからだ。日本国民に長州藩の執拗な復讐のDNAが拡散しては米国は安穏としているわけにはいかない、と考えるのが常識的だろう。かくして、米国人マッカーサーは明治政府の要人たち、とりわけ長州閥に連なる政治家たちのネガティブキャンペーンを張った。
 伊藤博文がこの国で人気がないのもそうした成果だろう。司馬遼太郎の小説でも彼は実に臆病な小物として扱われている。しかし彼も長州のファイブの一人として文久年間から元治元年にかけてたった半年とはいえ英国に密留学している。
 そもそも彼の出自は長州藩士ですらなかった。伊藤博文は林利助といって周防国束荷村の百姓の倅だった。厳密にいえば父親の不始末により田畑を失い、束荷村から萩へ逃散同然に出奔した一家の子供だった。

 そこから努力してこの国の初代総理大臣になった男に対して、GHQが明治日本躍進のカギを見てとってもおかしくはないだろう。天保十二年九月に生まれ、明治維新当時二十四歳だった男が明治日本の屋台骨を背負って立った。
 山口県は安倍氏で八人の総理大臣を輩出したとしている。菅直人氏は山口県出身の総理大臣の員数に入っていないようだ。しかし山口県出身というのなら安倍氏は紛れもなく東京生まれの東京育ちだ。ルーツが山口県にある総理に限定する、というのなら、伊藤博文氏は戦国末期にチョウソカベに追われ淡路から毛利元就を頼って落ち延びた林一族の末裔だ。伊藤博文氏も山口県人とは云い難い。山口県が排出した総理大臣というのは江戸時代に防長二州に暮らしていたことを以て、その子孫も含めて山口県出身と称しているのだろうか。菅直人氏を排除したことから基準はにわかに怪しくなる。

 ともあれ、一作家により貶められ評価の定まった感のある芸能に現れる長州人たちの地位奪回を願う。ことにNHKの大河ドラマでの長州藩の扱いは酷い。彼らもGHQの桎梏に繋がれたままのようだ。


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