「日々雑感」:水炊きの時期になると亡父を思い出す。

 実は鍋物などという料理は大学に入るまで知りませんでした。正確には実家を離れるまで、すき焼きも各自の取り皿に盛られた冷めたすき焼きしか知らなかったというのが正確です。
 父は広島第五師団捜索連隊所属の騎馬兵で、中支を転戦していたようです。昭和も18年になると太平洋方面の戦況が悪化し、捜索連隊も機械化部隊へと編制替えとなり東南アジアへ転戦することになったようです。いよいよ異動になるという直前に父に肺結核の症状が出て、急遽内地へ送還となったようです。

 ちなみに父がいた部隊はビルマのジットララインで英国軍と戦い機関銃掃射により全滅したようです。内地へ送還された父は広島の陸軍病院の結核病棟に隔離され入院していたようですが、たまたま原爆投下日には広島を離れていて被爆を免れたようです。
 終戦後、良い抗生物質が入って来て父は肺結核で死ぬことなく治癒しました。そして私たちが生まれたわけですが、父は自分が結核菌の保菌者でないかと危惧し、感染しないように生活でも気をつけていたようです。

 ですから同じ鍋を突っ突くことは決してなく、すき焼きも取り分けて頂きました。漬物も寄生虫の卵が付着していることを恐れて、父は母に命じて必ず煮沸させました。ですからパリパリという沢庵や白菜は大学に入って初めて知りました。
 今では水炊きは好物ですし、冬の風物詩として鍋物は欠かせません。しかし生れてより経験してないため、下宿で七輪を借りてきて同級生と囲んだ初体験の水炊きは仰天動地の食べ物でした。

 その父も9年前に84歳の長寿を全うしました。大正生まれの父の父、つまり祖父は明治生まれで、そのまた父は慶応年間・江戸時代の生まれで、そのまた父は伊藤博文や高杉晋作たちと同じ天保年間の生まれです。
 私にとって江戸時代は手を伸ばせば届きそうな身近な存在です。父の時代は子供は着物を着て草履で遊んでいました。何銭かを持って町の電気屋の店先へラジオを聞きに出掛けたと聞いています。

 我が家にテレビがやって来たのは小学三年生の時でした。当時は14インチの小さな白黒画面で、六チャンネルしかないバリコンを回していました。
 東京オリンピックの直前に市の体育館で各社カラーテレビの展示会があるというので見に行きました。色の滲んだような代物でしたが、天然色テレビ画面に驚いたものです。

 日々雑感。今年初めての白菜の漬物をバリバリと食べ、まだ早い鍋物を老妻と二人で突っ突きながら過ぎ去りし日々を回顧しました。


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