敬老の日にこそ少子化対策を本気で考えよう。

 敬老の日というと「老人を敬い感謝する日」だが、必ず老人が全人口の何パーセントに達したという報道がなされる。今年はさらに65歳以上人口が増加し、全国民の4人に1人に達した。

 お決まりの「社会保障費の伸びが大変だ」という論調には辟易する。あたかも老人は早く死ねといっているかのようだ。



 今年65以上となった人たちは団塊世代と呼ばれた人たちだ。青少年の頃には受験戦争と呼ばれた狭き門に挑戦し、昭和40年代に勤労世代となり、オイルショックやニクソンショックなどの嵐に揉まれながら、家族を守り社会の一員として日本を支えて来た人たちだ。

 高齢者が社会の厄介者だと捉えるのは間違いだ。しかし社会保障という負荷をこの国に与えるのも確かだ。その負荷をどのように賄うか、という議論もだが、いかにして負荷を減少するのかという議論も多いにすべきだ。



 負荷を賄うために「消費増税」をすると「野合三党合意」を民自公は取り決めた。しかし実際には社会保障に使われることはなさそうだ。なにしろ「税と社会保障一体改革」の議論がまだ何も進んでいない。

 この国の社会保障のありようを真剣に考え議論すべきだ。元々社会保障という概念は社会主義の産物だ。19世紀の産業革命により貧富の差が天と地ほどに拡大した英国の資本主義社会に怒りを以てマルクスが顕わした「資本論」がその発端だ。



 規制も何もない原始資本主義がいかに苛酷な社会だったか、国民は知るべきだ。その非人道的な社会に対して「すべての人の人権を平等に扱う」とする社会理念が社会主義だ。社会主義の眼目は富の再配分だ。富める者は多く負担し、貧困者を支える、という政治理念の下に規制が設けられ、政策が作られた。

 現在の日本社会は先進諸国の殆どがそうであるように修正資本主義だ。原始資本主義に様々な社会主義の美点を採り入れた制度だ。その最たるものが社会保障なのだ。



 医療保険は「負担は応能で支給は一律」という社会保障の理念が最も顕著に現れている制度だ。その対極にあるのが年金制度だ。日本は様々な年金制度を設けて、現役時代の年収格差をそのまま年金に反映させようとしている。その年金制度の理念は社会保障の理念に大きく反する。

 しかし政治家もこの国の社会も一方で生活できない国民年金を放置したまま、特権的な共済年金を温存している。政治家が長年口先で「一元化する」と主張してきた「共済年金と厚生年金の一元化」すら何も出来ないでいる。最低保障年金を掲げた民主党の2009マニフェストはいつの間にか反故にされてしまった。



 そもそも論からいえば、社会保障としての年金制度はすべてを一元化し、支給は一律とするのが基本的なあり方だ。そして最も問題とすべきは少子化のはずだ。社会保障の過重感は団塊の世代が消え去る30年後には解消されるのかというとそうではない。

 この国が出生率2.01を回復するまで現役世代が多くの老人世代を支える社会構造が順送りされるだけだ。この国の膨大な社会インフラを支える最低勤労人口はいくらくらい必要なのか、そろそろ社会学者は試算した方が良い。その限界点がそろそろ近付いているような気がするからだ。



 かつて2009民主党マニフェストの少子化対策はフランスの少子化対策を御手本にしていた。直接支給としていた「子供手当」は官僚たちにいかなる利権ももたらさないため猛烈な反発を招き、官僚の広報機関に堕しているこの国のマスメディアも猛烈に「ばら撒きだ」とバッシングし、「子供手当」をブッ潰してしまった。

 お手本としたフランスは人口再生産分岐点の出生率2.01を達成したが、日本は1.37から1.39にやや上昇した段階で止まってしまった。

 極論すれば年金は最低保障年金を一率支給として、その剰余を少子化対策に充てるべきだ。「子供手当」は日本の未来への投資だ。投資を怠れば社会でも設備は老朽化して崩壊へと向かう。少子対策を怠れば未来の日本国民は赤錆びたレインボーブリッジが崩落するのを目撃することになるかも知れない。敬老の日にこそ少子対策を考えよう。



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