品性と身嗜み。
時代とともに「品性と身嗜み」は変化するもののようだ。かつてタクシードライバーが髭を蓄えて会社から業務命令で「剃れ」と命じられて裁判沙汰になったことがある。遠い過去の話をしているのではない。半世紀前に東京五輪が開催された頃の話だ。
それから幾星霜を経て、お堅いNHKテレビ司会者などが髭を蓄える時代になった。それどころではない。牛も真っ青の鼻や唇に穴を開けてピアスを男がやる時代だ。軟弱な男子の話ではない、筋肉隆々の男子でもピアスを普通にしているから驚きだ。
歌を歌わないで器械体操のような踊りを専らやっているメンバーが多く登場するグループがかなり以前から人気だという。何という踊りだ、と思っていたら学校教育でも教えるというから教師たちがヒップホップだのナンダカンダという踊りを研修しているという。
そうしたことは教育で取り上げなくてもどうでも良いのではないかと思う。かつてエレキギターが麻疹のように若者に流行ったことがあった。今ではバンド編成の定番になっているが、学校教育でエレキギターを教えるところはないだろう。なぜ妙な踊りだけを教育に取り入れるのか理解し難い。
アンディ・ウォーフォールが登場した時、米国モダンアートにとってかなり刺激的だった。日本でいうと横尾忠則というグラフィックデザイナーの登場は何処となく竹久夢二を彷彿とさせる色彩があった。
しかし現在の電車のボディーにスプレー缶で悪戯書きする絵に芸術性は皆無だ。醜悪なだけで、電車のボディーを元々彩っている工業デザイン的な装飾の方にこそ現代アートを感じる。
多種多様雑多な色彩や意匠の中に現代人は生きている。ウンザリするほど多種多様だ。しかし人間の心を最も癒す自然は悠久の時を経ても同じだ。
実際は人間も大して変化していない。江戸時代の日本人は今日の日本人より全体的に一回りコンパクトだっただけだ。操っている言語も江戸時代に現代人が紛れ込んでもそれほど不自由は感じないはずだ。
特異性や創造性を際立たせようとして「見栄え」を気にするのは勝手だが、それに囚われ過ぎるのはいかがなものだろうか。タトゥーを入れるのは江戸時代の江戸では二一の墨といって、罪人の左腕に輪を彫ったものだ。地方によっては額に「犬」と彫ったりした。いずれも罪人に与える懲罰だった。
若者がアート感覚で彫るのは感心しない。飽きても簡単に消せないからだ。人は成長するものだ、いつまでもヤンチャで通すわけにはいかない。いつかは人の親となり世間の重鎮にならなければならない時が来る。
いかに財産を築こうとも、あの世へ持って行けない。ほどほどが一番だ。世田谷に100億円の豪邸を建てようと、それが悠久の歴史の前でいかほどのことだろうか。世のため人のために尽くしてこそ安んじてこの世とおさらば出来るだろう。