政治家は「終わりだ」と思った時が終わりだ。

  死ぬまで政治家に終わりはない。いや死して子弟を教育した政治家もいる。教育者でもあり思想家であった吉田松陰は安政の大獄で刑死したことにより、桂や久坂や高杉や伊藤などに勤皇倒幕の決意を固めさせた。


 政治家は「政治を辞めた」と諦めたら、その時が終わりだ。たとえ失意のドン底にあろうと「いや、頑張るゾ」と諦めない限り、政治家は政治家であり続ける。


 


 政治家は齢ではない。小沢一郎氏が70歳を過ぎたから首相の目がなくなったと決めつけるのは間違いだ。


 生涯を御国のために捧げる、との覚悟がある限り、命のある限り彼は高邁な政治理念を掲げて活動を続けるだろう。たとえ泥の中を這いずり回ろうと、風雪の下を背を丸めてでも、前進し続けるだろう。


 


 この国の政治は富める1%の人たちのためにあるのではない。99%のごく普通の人たちのためにある。


 ましてや国家のためにあるのでもないし、官僚たちのためにあるのでもない。まず日本国民のためにあり、次にその日本国民が暮らす日本国土のためにある。


 


 決して政治の優先順位を間違えてはならない。そうしないと主客転倒したおかしなものになってしまう。たとえば税は国民の暮らしを守るために徴収するものであって、財政規律を守るために国民の暮らしを蔑ろにしてまで徴収するものではない。


 仁徳天皇の故事に倣うまでもないだろう。政治家が傲慢な官僚の真似をするようになったら、直ちにバッジを外し郷里に帰って畑を耕して働くことだ。土にまみれ汗にまみれて人々と一緒に働くことだ。そうすれば小賢しい精神の垢が少しは落ちるだろう。


 


 政治家は政治を諦めない限り政治家であり続ける。たとえ不運にして落選したとしても、命を獲られたわけではない。臥薪嘗胆、という言葉がある。


 小沢一郎氏は必ずや蘇られる。新自由主義にのめり込む安倍政権がそれほど長く続くとは思えない。安倍政権が長く続けば長く続くだけ国民が不幸になるのは明らかだ。


 近い将来、再び小沢氏待望論が湧き上がるのは時の流れだ。政治家を一旦志したからには一度や二度の挫折にくじけず、目先の利に囚われず、遠き高き灯りを見詰めて歩き続けなければならない。



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