若者が希望を失う社会とは。

  日本の若者(15歳から39歳まで5歳ごとの区分けで比較)の死亡原因第一位が自殺だという。これは先進国で日本だけに特徴的なことで、日本社会のあり方が問われている。


 いつからか社会の支配層にとって「自己責任」という言葉が重宝なためマスメディアにも多く登場するようになった。その文言の多くは新自由主義者のあり方を正当化するために用いられ、たとえば「投資結果」は自己責任だ、というように使われている。


 


 小泉政権下の野放図な規制撤廃により労働市場が竹中平蔵氏の言うところの「機動的構造」へ変化した。それによりこの国の若者の雇用環境が劇的に悪化した。まさしく「劇的」で、正規社員として採用される新卒は半数に満たない実態すらある。


 それにより法によって守られない不安定な労働環境に若者の多くが身を置くようになった。その反面、法により立場を頑強に守られ続けている公務員は給与面のみならず労働環境も守られるといった二極化がこの国で起こっている。


 


 しかも今度は正規社員までも「産業構造改革」の名の下に竹中氏たちによって正規社員首切り自由化が図られようとしている。いつからこの国の企業経営者たちは自分たちの無能を労働者たちに皺寄せして恥じないようになったのだろうか。


 すべての経営者に「企業とは家族なり」とか「人は石垣」といった経営理念を強要しようとは思わない。しかし少なくとも社員がいなければ企業も存在しないことを忘れてはならない。


 


 そして日本の社会がいつからこんなに他者に対して冷淡になったのか、すべての大人たちは顧みるべきだ。国際社会に対して数十兆円もの援助をするのなら、なぜ国民に対して年間数兆円の生活保護に目くじらを立てるのだろうか。


 確かに不正受給は許せないが、レアケースを取り上げて執拗に生活保護制度を攻撃し、本当に困っている人たちをも色眼鏡で見るような社会が弱者に対して優しい社会だろうか。


 


 ネットの中の板を拝見すると、そこに寄せられる意見はともかく、言葉の攻撃的なのには驚きを禁じ得ない。お互いに意見を戦わせて高めあうのではなく、社会の閉塞性そのもののように傷つける言葉の氾濫に眉を顰める。


 この国は「ゆとり教育」で自由に遊ぶことは学んだかもしれないが、他者を思いやり共に力を併せることは学ばなかったようだ。そして単に学力の低下だけしか残らなかったため、また元の木阿弥に回帰してしまった。


 


 それは学ぶ者の責任ではなく教える側の責任ではないだろうか。若者たちは社会や大人の鋳型によって造られる。子供たちの前に提示される鋳型は一体どんな鋳型なのだろうか。


 そして「再チャレンジ社会」を政治家は安易に掲げるが、一度新卒のレールから外れた者に社会がいかに冷たいか、政治家たちは知っているはずだ。なぜなら彼らのすべては新卒のレールから外れた人たちだからだ。選挙で落ちればタダの人でしかない。そのタダの人こそが正規社員になれなかったすべての若者たちの立場だと想像すれば良い。


 


 なぜハローワークがぽつんと離れた場所にあるのか理解できない。厚労省の管轄だから、という行政側の理屈は解るが、本気で就職支援しようというのならなぜ失業している若者たちに心のケアをしようとしないのだろうか。


 ハローワークは市役所や社会保障機関の中に設置すべきだ。役所の理屈で税を勝手に使って良いものではない。ハローワークの傍に生涯学習センターがあったり、その地域の伝承技の展示コーナーがあったりしないのだろうか。就職活動はなにも就社活動だけがすべてではない。或いはケースワーカーの出番があったりするのではないだろうか。自分たちの狭義の役割だけを果たせば了とする公務員こそ必要ない人たちだ。自分たちの仕事を改善しようとしない公務員も必要ない人たちだ。そうした複眼的な思考の出来ない公務員は単なる税金泥棒と謗られても仕方ないものだと自覚すべきだ。


 


 若者死亡原因第一位が自殺だという社会全体の不名誉を、日本は一日も早く返上しなければならない。そのために税により養われている人たちが全知全能を傾けるのは勿論のこと、日本国民が他者に対して優しい国民になるべく身の回りの人たちに気配りすべきではないだろうか。



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