農業の強化は地方を強くすることから。
専業農家がどれほどいるか、政治家諸氏はご存じないようだ。都市近郊の中山間地にある2万人規模の町で専業農家は2人しかいないというのは珍しくない。ほとんどは第2種兼業農家で暮らしの基本は勤労者所得に頼っているのが現状だ。
農業所得で暮らしている専業農家はコメが主な生産物で、圃場は他の農家から預かったりしてほぼ2町歩耕作している。それぐらい米を作らないと営農として成立せず、それ以上増やすと一人で出来なくなるという。人を雇えば経営が成り立たない。
兼業農家の多くは勤労所得を農業所得の赤字補填に充てているのが現状のようだ。どの農家も専用の倉庫に田植機やコンバインなどの農機具一式を揃え、車も通勤用の乗用車に農業用の軽トラックと複数所有している。
他の農家と共同購入できないのか、と聞くと農繁期が一致する上に兼業農家のため休日に農作業をしなければならないため、使用時期が重なり共同購入などできない、という。
耕作放棄地が増えているのは耕作者が高齢化して農作業が出来なくなったが後継者もいないためだ。地方に勤める働き口がなくなると若者たちは都会へ出ていかざるを得ない。
経済のグローバル化と称して企業が工場を海外へ移したり、海外から安い製品が流れ込んで地方に展開していた生産工場が閉鎖したりして、地方経済が極端に疲弊している。
主婦たちを多く雇用していた縫製工場もほとんど姿を消し、現金収入がなくなった。地方経済を良くしなければ農業も同じように担い手がいなくなって成り立たなくなる。それでなくても農業収入は天候に左右されたり、病害虫の発生に左右されたりと、安定的なものでない。
地方の農家の収入で子育てができなければ、人々は農業に見切りをつけざるを得ない。活性化とはお祭り騒ぎをすることではない。安定的な収入があって、子育てが出来る家庭が築けることだ。その安定的な職場だった農協も合併によって本庁が支所に格下げされ、役場も平成の大合併によりなくなり、二百人ほどいた職員の補充採用も都市部に奪われてしまった。
欧州では五百人とか千人規模の町村がたくさんあって、それぞれが伝統と地域文化を重んじて継承している。しかし日本では着古した弊衣のようにさっさと脱ぎ棄て、顧みようとしない。昭和の大合併と平成の大合併が中山間地の地域を徹底して破壊してしまったようだ。それを行政の効率化と呼ぶにしては行政経費が削減されたと寡聞にして聞かないのはなぜだろうか。
この国は愚かなことを美名の下に行っているのではないだろうか。地方を守る、ということは地方経済をいかにして支えるかということだ。地方に暮らす人たちが家庭を営んで子育てできる経済環境を提供することだ。
しかし政府がやってきたことはことごとくその反対だった。企業の海外展開を促進することは地方の経済を破壊し、市町村の大合併は町村で最大の職場だった役場をその地から消してしまった。郵政の民営化も地方の郵便局の職場を都市部へと集約してしまった。小泉政権下で一体何が行われたのか、能天気な評論家たちは深刻な地方の実態をご存じないようだ。
安倍氏は山口県を選挙区としているが、彼もまた東京生まれの東京育ちだ。選挙の時にだけ選挙区にやってきて「ふるさとの皆さま」と手を振る。それに対して地方の有権者は歌舞伎役者の跡取りでも見るかのように支持する。何ともやりきれないが、それが実態だ。しかし政治家のほとんどが東京生まれの東京育ちではないだろうか。彼らに地方のことが本当に分かっているのだろうか。
政治の貧困を感じざるを得ない。彼らは地方の声を聞いていない。TPP参加などという関税自主権放棄のみならず、自国の文化や伝統まで放棄するような貿易拘束条約になぜ嬉々として参加しなければならないのか。彼らは国民の声ではなく、何処かから聞こえてくる声に耳を傾けているとしか思えない。
グローバル化が日本の未来を拓くのか。新自由主義が日本の未来を拓くのか。到底そうとは見えないが、政治家たちは日本の地方の風景や国民生活ではなく、全く別のものを見詰めているようだ。