維新の途次に多くの志士は命を落とし、生き残った志士たちも明治維新後に長州から東京へ去った。

  長州藩ほど維新に到るまでに多くの志士たちを失った藩はなかった。最も打撃を与えた事件は蛤御門の変だった。それにより松下村塾の双璧と謳われた久坂玄随の他にも入江九一など多くの門下生が命を落とした。


 ただ文久三年五月に横浜を出港した英国商船に潜んで密出国した長州の五人の若者たちは蛤御門の変に巻き込まれず、維新後に生き残った。その中に伊藤博文や井上聞多などがいた。しかし維新後彼らは東京へ居を移し、中央で活躍しることとなった。他にも維新の夜明けを迎えた長州藩の志士たちも東京の中央政府に出仕して行った。


 


 維新後に長州に残った志士たちがいなかったわけではない。数少ない松下村塾門下生としては前原一誠がいたが、彼は維新後に明治新政府が中央集権国家として地方の武士たちを切り捨てていくのに義憤を抱き「萩の乱」を起こして散ってしまった。


 口さがない歴史家は維新後に活躍した志士たちは「一流」ではなかったという。一流は維新を目指す過程で命を落としたというのだ。命を落とした一流の志士たちとして坂本竜馬や高杉晋作などの名を挙げる。


 


 明治維新後の政府を長州閥の頭として引っ張ったのは伊藤博文だった。彼は長州藩でも萩のある長門国ではなく、二流とされた周防国の熊毛郡束荷村の自作農の家に生まれた。天保12年9月2日のことだった。


 家格は村の庄屋に次ぐ畔頭というもので、そのまま平穏な日々を過ごしたなら、村で自作農として生涯を終えただろう。しかし彼の身の上に異変が訪れたのは六歳の折だった。父・林十蔵がお人好しから債務を負って破産したのだ。


 十蔵は遠縁にあたる男が萩の円政寺で僧侶をしているのを頼って萩へ出た。利助(博文の幼名)は三年ほど母・琴の実家・束荷村田尻の秋山家に身を寄せていた。


 


 林利助は9才の折に父が身を寄せていた萩城下の菊屋町円政時へ、春の束荷村を母と一緒に旅立った。その旅立ちが彼の人生を大きく変えた。


 いうまでもなく菊屋町には高杉晋作や桂小五郎などの生家があった。しかも僧侶は当時の知識階級だった。地の利、人の利に恵まれ、林利助は長州藩中間の伊藤家に養子に迎えられて伊藤と姓を改め雄飛していく。


 


 戦後にそうした政治家の一人として東京に居を移した長州出身者がいたとして、それが何だろうか。安倍首相は岸信介氏の孫として、安倍晋太郎氏の子として政治家の道を歩んでいるが、彼が命を懸けて自己研鑽に励んだ時期があっただろうか。


 恵まれた境遇に育ったポッと出の甘ったれた小僧がそのまま政治家になっただけではないだろうか。確かに伊藤博文と同じ総理大臣になったが、鼎の軽重は天と地ほどに異なる。


 


 この国の国民は人物眼を失ったようだ。少なくとも参議院補選で自民党候補の応援に山口にやって来た安倍氏に群がった聴衆に明治維新へと突き進んだ長州藩の躍動は全く感じられない。


 泉下の維新の志士たちは慟哭しているのではないだろうか。百数十年後にこんな国を夢見て命懸けで奔走したわけではないと。


 日本国民すべてが明治維新にもう一度学び直さなければならない。国家百年の戦略とはどのようなものか、それを誤ると正すのにどれほどの労力が必要かを。アベノミクスなどと瓦版屋のおだてに乗って浮かれている場合ではない。



このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。