品格なき人たち。

  仕事をして対価を得るのは当たり前のことだが、やるべき仕事として与えられた役目を果たさず、それも他の人たちに迷惑の及ぶ仕事をしないで対価だけを得ていたとは犯罪以外の何物でもない。そして公衆の利用する施設に居座り排泄物まで垂れ流すとは犬・猫にも劣る。


 そうした品格なき人が増えてきたような気がする。かつて頑固者と呼ばれた老人たちは若者を常に叱りつけていた。何よりも格好に拘り、服装なども決められたユニフォームをきちんと着るように口煩くしていたものだ。


 


 いつからか乱れた服装が当たり前となり、ユニフォームが「コスプレ」のキワモノ衣装となった。ズボンもわざとずり落ちそうに穿き、うら若い乙女が臍を出してもテンとして恥じないようになった。


 電車の中で化粧をするのが当たり前の風景となり、公衆が通る前でも若者たちは平気で座り込むようになった。男も耳朶だけでは飽き足らず鼻にも穴を開けてピアスを嵌めこみ、青年が眉を糸のように細く剃っている。


 


 そんなに外見が大事なのか。みんなと同じ格好をしていると個性がなくなるのだろうか。その割には若者は揃いも揃ってスマートフォンを寸暇を惜しんで弄くり回している。


 若い女たちの言葉が個性的かと思ったら若い女たちは押し並べて使っているようだ。それなら個性的とは云わない、その世代の共通語というべきだろう。ただ、それだけのことだ。


 


 朝から町を懸命に歩いている老人たちを見かける。ただただ歩いているだけのようだ。それなら少しでも社会の役に立とうとなぜ考えないのだろうか。


 しかし彼らは義務ではなく気分で歩いているのだから行政の一部に組み込むことはできない。行政の仕事の代行を彼らにお願いするなら、彼らは雨の日も風の日も歩かなければならなくなる。しかし雨の日や風の日には必要ない仕事なら老人たちにお願いすることができるのではないだろうか。


 


 地方都市なら駅前には空き店舗が幾らでもある。老人たちにそこでコーヒーなりお茶を飲んでもらって、引きこもりの若者たちの相手になってもらってはどうだろうか。たとえば囲碁・将棋手も良い。ただ黙って椅子に座って往来を眺めているだけでも良い。そこに引き籠りの人たちも来るように誘えば良い。


 そこで引き籠りの人たちも何もしないで黙っていても良い。老人たちも積極的にウジャウジャと話しかけない方が良い。何もしないでも時は過ぎ去る。引き籠っていても一年に一つずつ年を取る恐怖は引き籠りの人たちも心底味わっている。彼らが話しかけてきたら、老人たちは応えてあげれば良い。そうした場を行政は作るべきだ。


 


 人は群れて生きている。社会的存在という人もいるが、人は群れなければ自分の居所が解らなくなるる。品格は集団の中の位置を表す標章だ。人は人と接することにより鑢を掛けられて光ってくる。孤独は暗闇の穴を深くするだけだ。落ち込んでじって膝を抱えていても何も昨日と変わらない。そこには品格もなにも必要ない。したがって品格とは無縁な人格が出来上がるのだ。



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