日銀の独立性の確保と開かれた日銀とは矛盾しない。
日銀が財務省「日銀局」になってはならないのは言うまでもない。日銀が政府の御用聞きに成り下がって、通貨発行量を財務省の思惑によって加減するようになれば日本の「円」に対する信認が揺らぎかねない。
その反面、日銀がバブル崩壊以後何をやってきたかに大いなる疑問を抱く。いやバブル崩壊以後ではなく、バブルに到る過程とバブル崩壊に対して日銀は無策であったのではないだろうか。
いうまでもなく、バブルは過剰流動性により市場に溢れた通貨が土地投機へと向かい狂乱的な土地価格高騰を招いた。その動きに乗るかのように金融は土地投機へと貸し出しを加速し、多くの個人や会社が土地取引に手を染め、仮需要の上に経済が膨張を続けた。
バブルが一般国民から遊離した土地価格を押し上げたため、マスメディアが先頭を切って「バブル悪」退治のセンセーションを起こした。バブルと無縁だった一般庶民はマスメディアの煽りに乗ってバブル退治の標的とされた一握りの不動産業者の所業を連日テレビのワイドジョーで追及されるのに溜飲を下げた。
政府は不動産取引こそが諸悪の根源という説に立って不動産取引を徹底して押さえ込む政策にシフトした。そのありようは常軌を逸していたが、国民は拍手喝采して自らの首を絞める結果になることも解らず政府を支持した。
たとえば土地購入以後10年以内の短期土地取引に98㌫もの短期譲渡税を分離課税した。そうすると殆どの土地取引は停止し、不動産に手を出していた人や会社は土地の塩漬けをせざるを得なくなり、ババ抜きのババを掴んだままトン死せざるを得ない状態になった。それに併せて「総需要抑制策」を通貨当局が断行した。日本経済は一気に大量の冷や水を浴びせられた格好となり、バブルはハードランディングさせられた。
バブル崩壊が国民に何をもたらしただろうか。テレビワイドショーで連日バブる紳士の無様な転落劇を報道し、国民の多くはその悲惨さに溜飲を下げて拍手を送ったが、それから20年を超えるデフレ経済の鳥羽口に立っていることに気付かなかった。むしろバブルの方が国民経済にとっては良いことだったのではないだろうか。
バブル崩壊劇に投機家たちが暗躍して会社の乗っ取りや銀行の乗っ取り劇を演じた。それに手を貸したのが「金融改革」と称して「国際基準」の自己資本比率8㌫の適用を銀行に求めて大量の公的資金を投入して一時的に「国有化」して政府権限を拡大し、銀行の売り飛ばしを政府が行った。それを実質的に仕切ったのが竹中平蔵氏だ。
竹中氏は日銀の当時の「金融引き締め」の金融政策を十分に利用して、公的資金を大量に投じた銀行を捨て値同然にハゲタカに売り渡した。今も竹中氏は日銀法の改正を口にするが、実際に何をどのように改正してどのような効果を目論むのかを口にしていない。かつて小泉政権下の竹中氏も「構造改革」という文言を盛んに口にしたが、その中身に関して「グローバルスタンダード」だという以外に殆ど説明しないままに各種「改革」を断行して日本を格差社会に変貌させた。
竹中氏が再び政治の表舞台に蘇ったが、国民は彼がかつて何をしたかを忘れてはならない。彼は絶えず「改革」を口にするが、その中身に関しては実質的な説明を殆ど何もしない。日銀法を改正して政府が関与し易くして彼は何をしようと目論んでいるのか。
日銀の独立性は維持しなければならない。かつて戦前・戦中のように日銀が政府の紙片発行部局に堕したとき、何が起こったかを歴史に学ばなければならない。大量の戦時公債を政府が発行して、それを悉く日銀が引き受けて紙幣を垂れ流した。その悪夢を繰り返してはならない。
たとえ同じ金融政策であったとしても、自律的な金融政策と政府要請による金融政策とではまるで異なる。しかし日銀の透明性は拡大すべきだ。彼らの報酬がどうなっているのか、膨大な日銀の資産がどうなっているのか、を公開すべきだ。民主主義の社会でブラックボックスを設けてはならず、すべては国民の知る権利に供すべきだ。たとえ日銀といえども既得権益の中に惰眠を貪ることが許されないのは言うまでもない。