国家の存在が国民個々人の存在を超えても良いのは国防だけではないのだろうか。

  産経新聞が長浜原発再稼動で静岡県議会に住民投票条例案が提出されることに関して国の原子力行政に地方が関与すべきでないとし、地方住民の直接民主主義は国の代表制民主主義の補完であって乱用すべきでないと、実に珍奇な論評を掲載している。


 


 まず直接民主主義で住民が一つの事柄に関して意思を表明する「住民投票」が国の基本的な政策に関与すべきでないというのは本末転倒もはなはだしい。代表制民主主義は一つ一つの事柄のすべての意思表示を代議士に託したわけではない。ましてや民主党の「消費増税」法案のように、選挙時に掲げた2009マニフェストと真反対の政策を実施する政党が出現するに到って、代表民主主義の危うさを感じないわけにはいかない。


 


 次に原発の再稼動が国家の基本的な事項に属するか否かだ。原発も所詮は発電装置の一つに過ぎない。安全で安価で安定的な発電装置なら使用することに依存はない。電気が国民生活の便益に資するものだというのに異論はない。しかし電気がなければ国民は死ぬしかない、かのような議論には与しない。著名な音楽家が発言したように「タカガ電気」でないか、その発電装置のために地域住民が田畑や屋敷や命までも失いかねないとは狂気の沙汰ではないだろうか。


 


 国家のために国民の生命や財産が脅かされることがあってはならない。どんな理屈があろうと一企業の最大利益(これもまやかしの嘘八百だったと判明しているが)のために原発が必要だ、あるいは国家産業のために電機は必須不可欠だ、という議論が国民の生命を奪うかもしれないロシアンルーレットのような発電装置を稼動させる理屈にはならない。


 


 発電装置の選択肢は広く国民に解放されるべきだ。市場原理の中で発電に国民が自由に関与できれば発電装置の多様化はもっと図られてきたはずだ。国民個々人の多様性と独創性に満ちた力を抑圧しているのは他ならぬ電気事業の地域独占制度だ。その制度が居心地の良い人たちにとって発電装置の独占こそが望ましく、独占事業の行き着いた先が原発だ。原発こそは決して国民個々人が手にすることが出来ない発電装置だ。


 


 原子力ムラの住人にとって特権的な利権構造が永遠に続く源は原発だ。原発稼動こそが彼らにとって居心地の良いムラが存続できる「葵の御門」だ。放射性廃棄物が山のように積まれたまま放置されようと、古いドラム缶が腐食して放射能汚染された液体が漏れ出ようと、原子力ムラの住民にとって彼らがそこにいる間だけ問題が表面化せずに時間が経過すれば良い、という考えだろう。それこそ官僚が最も得意とする「問題先送り」戦術だ。


 


 原発はすべて即時停止する方が良い。それが出来ない相談だとマスメディアはシタリ顔で2030年ゼロが妥当か否かとバカげた議論に国民を誘導しようと目論んでいるが、今年の異常な猛暑を大飯原発の稼動だけで乗り切った実績に鑑みれば直ちに原発すべてを停止しても問題がないことは国民の目に明らかだ。


 国家は国民の生命と財産を守るために存在している。その使命も果たせないのなら官僚たちは全員クビにして、戦国時代さながらの無政府状態のほうがマシかも知れない。ただ、国家の存在が国民個々人の権利に優先する事態があるとすれば日本が他国により侵略される場合の国防戦争だけだ。


 


 国会議員や県議などの地方議員はあまりのぼせ上がらないことだ。直接民主主義ですべての議案を国民投票に附すことができるなら、それに越したことはない、というのが民主主義の大原則だ。ただ物理的に不可能だということから代議制を敷いているに過ぎない。本末転倒して国の差配に国民は従え、というのは民主主義を理解していない輩で「地動説」を唱えるガリレオを裁いた現体制こそがすべてであるという頑迷な中世の聖職者たちと同じではないだろうか。



このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。