民主主義とは主権者国民の意思に基づいて政治を行う制度だ。

 マスメディアはしきりと「原発再稼働」を政府に迫り、さもそれがこの国の産業と国民生活のためであるかのように報道するのはなぜだろうか。


 原発を再稼働しなければ電気が不足する、という理屈を最初は主張していたが、そして事実東電は昨年は計画停電なるモノを強行した。しかし今年の猛暑に対して、全国で動いている原発は大飯の3号4号基だけだ。去年の夏よりも動いている原発の数は減少している現実を忘れてはいないだろうか。それでも計画停電は行われていないし、大停電も起こってはいない。


 


 嘘もいい加減にしてもらいたいものだ。この夏の電力需給を示した全国各紙は五月前後に相次いで紙面で報じた事実と、現実の需給とをもう一度対照させて報道し、国民に素直に詫びるべきだ。彼らが原発再稼働へ国民世論を導こうとしていたのは明らかで、そのために敢えて嘘を報道していたとしたら由々しき問題だ。あるいは嘘と知らないで政府・電力各社の出した数字をそのまま無批判に掲載しただけなら自分たちの不明を詫びるべきだろう。


 


 次にマスメディアが原発再稼働の理由にしているのが電気料金だ。原発再稼働がなければ電気料金が上がる、と国民を脅している。しかし世界には原発のない国は沢山あるが、日本より高い電気料金を国民から徴収している国は極めて少ない事実をどのように説明するのだろうか。


 電力会社が購入している天然ガスは国際相場の6倍だという報道もある。石油価格も通常の取引価格よりも高額だと国民は知っている。大口で安定的な取引相手なら購入価格は値引きされるのが常識だが、電力各社にはそうした常識は通用しないようだ。


 


 摩訶不思議なエネルギー調達価格を追及しないで、原発再稼働なくして電気料金が上がると報道するマスメディアは果たして何のために存在しているのだろうか。国民はスポンサーになりえないが、電力各社は貴重なスポンサーだから大事にして電力会社の広報を担当している、としたら本末転倒だ。国民の存在なくしてマスメディアは存在しない。電力各社ももちろん存在しない。本末転倒の議論がこの国には多過ぎないだろうか。


 


 著名な音楽家が「たかが電気ではないか」と原発再稼働に抗議したら、たかが電気とは何事だ、電気がなければ産業は成り立たないし病院も稼働しなくなる、と飛んでもない反論をしたマスメディア関係者がいた。しかし「たかが電気」ではないか。電気のない生活は不可能ではないが、放射能汚染の環境で人は生きていけない。しかも原発がすべて停止してもこの国の電気は不足しないとこの夏の猛暑により既に証明されている。


 


 電力の自由化を行えば電気料金は下がる。当たり前の経済原理だ。いろんな理屈や電力会社の利権構造を批判するよりも、電力の自由化を行えばたちまちあらゆる利権構造は解消され、電気料金は下がるだろう。


 この国には再エネを促進すれば電気料金は上がる、と主張する御用評論家がいるが、それは再エネ電気を高価な価格で買い入れるのを前提とした話だ。発電装置に応じて特別扱いする必要はない。すべてを自由競争させればよい。その中でより安価にして自然に負荷を掛けない発電装置を開発しなければ自由化の意味はない。官僚排除の力は削がれることになり、いつまでも経産官僚による電力業界支配と天下り構造が維持されることになる。それもまた電気料金の原価を押し上げる要因になることを考慮しなければならない。


 


 原発は直ちに停止し、廃炉に向けて技術開発と方途を策定すべきだ。最終処分場の選定も勿論のことだが、最終処理の技術開発に本気で取り組むべきだ。その技術開発だけでも世界の原発廃炉に対して貢献できるだろう。次の世代へ向けて人類の存在を脅かす原発に頼らない。


 原発即時停止が国民の圧倒的世論なら、マスメディアは下手な小細工を弄することなく脱原発社会への道筋を示すべきだろう。政治家もバカな独善的な判断を繰り返さず、国民の声に従うべきだ。そして再エネだけで電気がふんだんに使える世界を目指して、福一原発事故を起こした日本が先駆者にならなければならない。



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