所属政党に重きを置くのか、それとも政治理念に重きを置くのか、政治家の鼎の軽重が問われる。
小沢氏とその仲間は政治理念に殉じて民主党を離党し、新党結成という厳しい茨の道を選んだ。その一方で仲間の何人かは自身の政治理念と政党理念との乖離に目を瞑って、民主党に残る道を選んだ。
同じことは「消費増税」を巡って自民党にも「消費増税」に必ずしも賛成でない政治家もいるだろう。彼らの何人かは反対の意思表明をしたものの離党することもなく自民党に残っている。一体政治家にとって政治理念の重さとは何だろうか。
公明党は一糸乱れることなく「消費増税」に賛成した。彼らの最大にして唯一の支持組織「創価学会」の信者たちも一致して消費増税に賛成しているのだろうか。意見集約を公明党はキッチリと行い、創価学会の信者たちの総意として消費増税に賛成したと国民は受け取って良いのだろうか。
連合の幹部たちは野田政権が消費増税を決めるのを支持した。それは連合傘下の単位労働組合の意見集約をした組合員の総意としてやったことなのだろうか。それとも連合会長がパナソニック労組出身だから輸出製品の消費税還付を目当てにパナソニック本社の意向を受けた行動だったと見るべきなのだろうか。そうだとしたらトコトン見下げた男だといわざるを得ない。
人の鼎の軽重はその行為によって決まる。それも瀬戸際に追い込まれた段階での決断と行動目的がその人の品位とは何か、理念とはいかなるものかを開示してみせてくれる。
野田氏は国民との約束などアッという間に丸めて捨て去った。その品格たるや卑しさを通り越して人にあるまじきといわざるを得ない。その卑しき首相に媚び諂っている政府要人や党幹部とは一体なんだろうか。その卑しき首相と「三党合意」なる野合翼賛政治に邁進した自・公の政治家たちも野田氏と同じ卑しさだと断じざるを得ない。
政権政党となった民主党に所属してみて、その居心地の良さを満喫したい気持ちも解らないではない。しかし政治家は自らの政治理念に対して正直でなければならない。その正直に思うところを有権者に披瀝して信任を得て議席を得るのが選挙でなければならない。
政治家が自身の政治理念を磨くこともなく、着せ替え人形の衣服のようにカッコ良く衣装を纏えば一人前の政治家が出来上がる、と勘違いした連中が夏の夜の電球に群がる虫のように、大阪維新の会に群がって羽をバタバタさせている。浅ましい限りだが、彼らは「生き残りのため」だと割り切っているという。ここにも卑しい連中がいる。
どの勢力と組むかが先にありきではなく、政治家は国家と国民のために自身がどう行動すべきか、というまず政治理念を確立し、政治理念を共有する人たちと仲間を作り政党へと進むのが政治のあり方だ。本末転倒が現代の流行のようだが、政治の世界の本末転倒は見ていると卑しすぎて反吐が出る。