なぜ戦場の取材が必要なのか。
痛ましい事故が起こった。戦場で取材していた日本人女性ジャーナリストが殺害されたという。しかし戦時下での出来事は殺人ではなく、すべて事故ということになる。戦争では人の死は日常的なことであって取り立てて報道すべきことでもない。
そうした現場へ出掛けたからには、非業の死を遂げるのも覚悟の上だったと思われる。まだ40代と若く、これからもさまざまな人生があっただろうにと思うと、痛切の念に苛まれる。
しかし戦場へ赴いた時点で死は日常的なものだとの覚悟がなければならない。市民が何万人と殺害されている現状でジャーナリストにだけ弾のほうから避けるわけではない。当たれば誰でも死ぬしかない。大口径の殺人目的の戦争兵器の銃は威力も強力で、女性の首に当たったときから血管は千切れ骨や肉組織は飛び散り、即死に近い状態だっただろうと思われる。かえすがえすも残念だが、日本のテレビには「戦場カメラマン」を売りにするタレントが登場したりする。彼でも生きながらえられ、帰ればテレビで引っ張りだこになる、というので若いカメラマンが無鉄砲に戦場を目指さないかと心配になる。
事実、戦場カメラマンと称するタレントは女性ジャーナリストが事故死したシリアに赴いていない。日本でテレビに登場して「戦場カメラマン」だと自称している。
そして女性ジャーナリストと同行していたという男性ジャーナリストは元気にテレビ取材に応じている。彼は女性ジャーナリストの死生に関して少しも責任はないのだろうか。男性として、これ以上踏み込むのは危険だと諭さなかったのだろうか。
国に居られる御両親の心痛は想像に余りあるが、娘が戦塵渦巻くシリアへ出掛けることに懸念はなかったのだろうか。戦場は何もシリアの弾丸飛び交う地だけにあるのではない。東京にも熾烈な生死を賭けた戦場は幾つでもあるだろうし、放射能汚染というならまさしく生死を賭けた戦場は福島県にもある。
取材すべき地は何もシリアだけではなかったはずだ。それを通信社はカネになるからとジャーナリストをシリアへ派遣したのなら、その通信社の社長こそシリアで流れ弾に当たって死すべきだった。
ジャーナリスト志望の若者たちよ、危険な地へ赴く必要はない。戦場にいなくても「戦場カメラマン」だと自称するタレントの存在を知っている。君たちも日本の戦場を駆け巡って、この国の戦場を克明に報道すべきだ。
一つの戦場は東京地検特捜部にある。小沢氏はいわれなき冤罪でこの国の政権党の代表の座を放逐され、当然なるべきだった首相の座を奪われた。これが暗黒の戦争でなくして一体なんだろうか。君たちの目の前で権力者による民主主義破壊の戦争は演じられている。それに対してジャーナリストはいうまでもなく、同僚の国会議員までも不感症だ。この国の危機はまさに身近に迫っている。
ドンパチ爆弾が爆発しなければ戦争ではない、と思うのは想像力の欠如だ。機関銃で撃ち合わなければ戦場の緊張感がないと思うのは無知蒙昧のなせる業だ。小沢氏が貶められた摩訶不思議な第五検審会の権力の罠は地雷以上の威力を発揮している。今も小沢氏を控訴権が付与されているのか疑わしい指定弁護士(一審の指定弁護士の権利が二審にも及ぶのか、法的根拠があれば教えて欲しい)がコウソしている。この国は果たして法治国家なのか、それとも何でもアリの検察国家なのか疑わざるを得ない。まさしく戦場はこの国の中にある。戦場カメラマンは世界の戦地へ出掛ける必要はない、永田町や霞ヶ関を徘徊していれば理不尽な戦闘の場面に出くわすだろう。
シリアの市街地で亡くなられた女性ジャーナリストに哀悼の意を捧げるとともに、戦地へ赴かなけば悲惨な「絵」は撮れないと思うのは飛んでもない間違いだと指摘したい。米国基準のビュウリッツァー賞は必要ない。必要なのはこの国の闇を暴くトクダネだ。