自民提案の「高齢者給付金」なら、民主党の「最低年金」案の方が良い。
老人の困窮者に対して最低年金を支給するのがバラマキなら、自民の提案する高齢者給付金もバラマキだろう。しかし「働かざる者食うべからず」の原則では、資産所得のない老人者の多くは肉体的にも就職状況からも勤労所得を得ることが困難な状態から、生活困窮に陥るのは目に見えている。
そうした老人に対して「生活保障」をする制度の創設に対して、マスメディアが必ず若者たちが勤労意欲を失う、と批判するのはなぜだろうか。本当に若者たちは65歳を過ぎた老人たちが最低年金などで生活できる国に暮らすと勤労意欲を失うのだろうか。なぜ勤労意欲を失うのか、心理的メカニズムが理解できない。
現行の現役時代の年金保険料や共済保険料の額に比例して支給される年金に多寡がある方が勤労意欲が湧くのだろうか。確かに多くの年金がもらえるとなると、その職場にいつまでもい続けようとする「勤労意欲」は強くなるだろうが、それは効率的、合理的に働こうとする「勤労意欲」とは無縁なものではないだろうか。それらは「就職」ではなく「就社」とでも呼ぶべき現在のあり方と何も変わらないだろう。つまり若者は就社するのであって、経理職につくのか、総務職につくのか、営業職に就くのかは就社してから会社が勝手に決めることになる。
新卒者の3割は就職後一年以内に退職するという。現行の「就職」のあり方が次第に時代の変化に対応しきれていないことの証明ではないだろうか。そして退職した新卒者は一年の就職があったことから新卒待遇として新規採用されることはない。こうした硬直性こそ経済界は反省し改めるべきなのだが、そうした評論はマスメディアに掲載されない。
だから老後のセイフティ・ネットを現役時代の「職場」に関わりなくきちんと準備しようとする「最低年金制度」を提案すると、バラマキだの若者の勤労意欲を阻害する、などという理解不能な論理がマスメディアに登場するのだ。
マスメディアに社員以外の契約社員を対等な待遇で半数程度登用し、対等に活躍できる場を提供しなければこの時代の変化に論理がついて行かないのではないだろうか。異なる観点から複眼的な論理がマスメディアの中に存在していなければ、新しい制度はすべてバラマキとの短絡的な批判になるだろう。その最たるものがマスメディアの批判の嵐で潰された少子化対策の「子供手当」だった。後世にどれほどこの国が悔むか、少子化は国の活力を喪失させ、経済成長を削ぐ大きな要因になることに気付いた時には没落して沈みつつある国の姿を眺めるだけになるだろう。バカなことをマスメディアはしでかしたものだ。
今度も老人への給付に対するバラマキ批判だ。無年金者にも「給付」するのか、という批判は生活保護で対応すべきというのだろうか。その生活保護による社会保障と給付金による社会保障とどちらが制度としてより良いかを比較するしかないだろう。より自律的で老人の尊厳が守れるのは「最低年金制度」ではないだろうか。年金会計が膨張するとの批判には年金会計の総枠を定めて、その中で運用し、高額年金のあり方を考えるしかないだろう。既に子育てを終えた老人世帯に年額250万円を超える年金が果たして妥当なのか、保険料の受給既得権を守るよりも、最低年金を重視する方が社会保障の理念に合致していると思えるのだが。