政治家を育てる「政治塾」なぞ役に立たない。

 政治塾でそこそこの政治家は育成できても、本物の政治家が養成できるとは思えない。まず、人間は規格品ではない。一人一人の体型が異なるように育った環境や性質や考え方がすべて違う。次に、リーダーとはこういうものだという「雛型」は存在しない。協調型のリーダーもいれば、牽引型のリーダーもいる。そして時代が異なるし、ライバルも異なる。だから「雛型」を育てるしかない政治塾には「一定水準」の「理屈言い」を育てるには効果的かもしれないが、飛びっきりの指導者を育てることはできない。いやむしろ、一国の宰相を育てるには邪魔な存在といえるだろう。


 


 各種政治塾が花盛りのようだ。動機は何であれ、とにかく政治家を育てようという塾なのだろう。そこに集まる人たちは近い未来の政治家を目指しているのだろう。塾生の期間は講師の教えを聞くことはできるが、一旦塾を卒業すれば世間が講師となる。そこにはアカデミックな理屈も何もない。あるのは選挙術だけだ。選挙に勝てなければ議席を得ることはできない。いかに高邁な理屈を捏ねることに長けていても、何の役にも立たないのだ。


 


 選挙に勝つためには朝立ちや辻立ちやドブ板やポスティングや挨拶回りや、頭脳勝負ではなく体力勝負となる。ただ「○○塾」卒という肩書が選挙公報の片隅に印刷されるだけだ。


 松下政経塾卒業の政治家が総じて「口先」政治家だといわれるのはディベート術を鍛えられたからだろう。しかし、松下イズムが大した役に立っていないのは卒業生が各政党にバラケていることから明らかだ。松下イズムが強烈な教えとして塾生の理念を形成していれば、一定の政党から立候補するのが筋だ。ただ、政治家になれれば良いからどの政党かを問わないというのではご都合主義の政治家を育てただけだ。


 


 政治家は自らが「政治家とはいかなるものか」を体得するしかない。昔は政治家の許に書生として住み込み、常に政治家の身の回りの世話をするうちに体得するのも一つの方法だった。


 あるいは突如として政治家を志し、艱難辛苦の末に議席を得た人もいる。もちろん議席を得るどころか、落選の末に青雲の志を諦めた人の方が遥かに多いだろう。


 政治家になれる確率からいえば「政治塾」を卒業してそのブランドを利用する方が政治家になれる確率の方が高いだろう。しかし確立を追うだけが人生ではない。政治家を目指して落選に次ぐ落選でついに諦めたとして、それが人生の敗北を意味しない。政治家だけが人生ではないからだ。


 


 寄り道や回り道した者の目には直線的な人生を歩んだ者の目には決して見えない人生の喜怒哀楽が心に沁みているはずだ。政治家を目指して辻立ちしたりドブ板をしたりポスティングに汗を流した者の精神は強靭になっているはずだ。人を怨まず「有権者はバカだ」と嘯かず、顔を上げて正々堂々と人生を歩むことだ。


 君子たる者、王道を往く、だが、自分の歩む道こそ王道だと、肝に銘じて精進することだ。坂本竜馬は「たとえドブで斬られようとも、前のめりに死にたい」と言っていたそうだ。政界から胆力のある大物がいなくなったといわれて久しい。最後の大物政治家小沢一郎氏を私は応援する。



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