大学生の24%が「平均」を理解していないとは、

 大学生の24%が「平均」を理解していないとは、この国の基礎教育と成年の学力は大丈夫か懸念を抱く。平均とはきわめて単純な概念に過ぎず、日常生活でも広く応用されているものの一つだ。その概念規定を把握していないとは驚きの一語に尽きる。


 


 団塊の世代が義務教育を受けていた頃、1学級は50人以上もいて、中には教室に入り切れないため廊下に机を置いて窓越しに教育を受けたものだ。それでも「平均」の概念が大学生の24%も分からないということはなかった。


 


 もっとも団塊の世代の進学率が1割前後と、現代の6割前後に及ぶ進学率と比較にならないかも知れない。それにしても団塊の世代の頃は50人以上の学級に先生は一人で、現在のように概ね30人の教室に2人の先生がいることはなかった。それでも学力が低下しているとしたら由々しき問題ではないだろうか。


 


 一時期、はやりのように「ゆとり教育」という言葉がもてはやされた。詰め込み教育は人格を破壊し情緒豊か人が醸成されない、という「反省」がゆとり教育をもたらしたようだが、それは生徒のためのゆとり教育ではなく、教える側のゆとり教育ではなかっただろうか。


 


 人は比較するものがあって自分がどのような状況にあるのかを知る。最初から薄い教科書とユルユルの到達目標設定の教育を受けたなら、それが教育というものだと勘違いしてしまうだろう。


 団塊の世代は詰め込み教室や怒鳴り散らす先生によってもたらされるのが「学校教育」だと思っていた。だから本気で勉強しようとしたら必ず予習と復習が欠かせなかった。なにしろ先生が多忙なのはどの生徒にも解っていたから、トコトン学校で勉強できるとは思っていなかった。


 


 当時にも落ちこぼれはもちろんいた。窓から授業を抜け出す者がいても先生は大して気にしなかった。全く授業を理解していない生徒もいたが、それはそれで遊び時間には伸び伸びと遊んでいた。人間の多様性などというものはしかつめらしく教えなくても、教室を見回して自然と得心出来ていた。50人以上もいれば気の合う仲間もいれば一年間一度も言葉を交わさず過ごすクラスメートもいた。しかし、それが何か問題だっただろうか。


 


 勉強が嫌いな者は勉強目的よりも、むしろ給食を食べに来ていた。なにしろ腹が減っていた。


 なぜか団塊の世代が卒業してから各学区に二校目の公立普通高校が新設された。実に不思議な思いで眺めていたものだ。勉強したくない者や、勉強の出来ない者までも進学を目的とする公立普通高校へ進学するようになった。それに輪をかけて「ゆとり教育」によるカリキュラムの削減だ。


 


 大学も駅弁大学と揶揄されるほど、駅弁を売っている駅のある程度の地方都市に新設大学がドンドン建てられた。これでは大学生の学力が落ちて当たり前ではないだろうか。いや、大学生と呼んではならない、大学予科とでもいうべき、大学へ進学するに値する学力を身につける段階の生徒まですべてを大学生と称しているのではないかと思える。


 


 大学生には最低限習得しておくべき「大学受験資格試験」を課してはどうだろうか。その試験に通らなければいかなる大学も受験できないとしておくことだ。同じような制度を採用している国は先進諸国にもいくらでもある。


 あるいは共通一次で足切りをして、これ以上の点数がなければ受験すら出来ないとすべきだ。


 


 いうまでもなく私学といえどもこの国は税を投じている。直接投入は法律で禁じられているから「私学振興会」を通じて国税が私立大学にも投じられている以上は、一定の学力以上を有する『大学卒業生』を世に送り出さなければ、大学の設立規範に反するのではないだろうか。


 


 大学の自立と学問の自由は結構だが、それは一定以上の学力が身についている人を前提としたものでなければならないだろう。「平均」の概念すら分からない大学生がいては堪ったものではない。



このブログの人気の投稿

それでも「レジ袋追放」は必要か。

麻生財務相のバカさ加減。

無能・無策の安倍氏よ、退陣すべきではないか。

経団連の親中派は日本を滅ぼす売国奴だ。

福一原発をスーツで訪れた安倍氏の非常識。

全国知事会を欠席した知事は

安倍氏は新型コロナウィルスの何を「隠蔽」しているのか。

自殺した担当者の遺言(破棄したはずの改竄前の公文書)が出て来たゾ。

安倍ヨイショの亡国評論家たち。