選挙制度は始終手を着けるものだろうか。
たとえば米国の大統領選挙制度は歴史的な経緯を重んじて、人口移動などによる各州の代議員数を人口比例でしょっちゅう改定していない。それは一票の格差をもたらすではないか、という批判が湧き上がるのは当然予測してのものだろうが、そうした個々人の一票の格差を越える重要なものがあるとの考えによるものだろう。
現在、日本の国会議員の構成比で「都会」政党と「田舎」政党が結党されると圧倒的に「都会」政党の方が多くの議員を抱えることになる。人口比例で国会議員数を決めれば国民の8割以上が都会といわれる地域で暮らしている。
確かに一票の格差をなくせ、という理屈は単純で分かり易い。しかしその理屈を堅持したまま議員定数を減少すれば現在2人区の島根や鳥取などは1人ないし0人になるかもしれない。それでも一票の格差をなくすのが金科玉条の理屈だとするなら仕方ないことだろう。
一票の平等を突き詰めれば、ついには人口の少ない地域は国会審議の中で切り捨てられることになりはしないだろうか。人口が少ないのだから無視しても構わないのだろうか。それが個々人の平等を謳った憲法に適うことなのだろうか。
一票の平等とは人口比例だけの平等だけを差しているのではないだろう。歴史的地理的平等も加味しなければ根源的な平等とはいえないのではないだろうか。山間僻地や島嶼部を多く抱える地域は今後とも人口減が続くだろう。反対に都会は比較で多くの人口を抱え続けるだろう。しかしそれでも人口増の時代は大した問題ではなかった。地方でも路地や野原に子供たちの声があふれていた。だが、少子社会で人口の少ない地方を「牧歌的だ」と賛美ばかりしていられなくなった。
耕作地が荒れ、山が荒れている。放置された地域がだんだん増え、おざなりに人口植林されたままの山はかなり悲惨な状況になっている。それでも人口の少ない地域は国会議員を出す資格はない、と選挙制度改革と称して切り捨てるのだろうか。
一票の格差を最終的に審議した最高裁判所の判断のあまりに単純な裁定動機には愕然とする。小学生程度の算数により一票の格差を断じるのなら国会はしょっちゅう選挙制度をいじくっていなければならなくなる。国会議員に選挙制度改定の作業を年中させて、国会議員が国会議員の本分たるこの国のありようを議論させないための最高裁判所の陰謀かと疑いたくなる。
一票の格差とは算術的な平等だけではないだろう、という複眼的思考がなぜできないのだろうか。高次元的な判断で「違憲状態とはいえない」と最高裁判断が出ればこうした算術的「平等」の確保を巡って国会議員が枝葉末節の議論に振り回されなくて済むだろう。なぜそうした裁定がこの国の最高判断すべき最高裁判所から出ないのだろうか。それとも最高裁判所を構成する人たちは算術的平等しか議論できない低次元な視野しか持たない人たちなのだろうか。
国会で選挙制度の一票の格差で議論すべきは算数的平等が決して一票の平等を意味するのか、といった根源的な投げかけをすることではないだろうか。国民の巻き込んで、何が何でも算数的平等を確保せよ、ということが本当に重要なことなのか、と問題提起しなければ国会は国会の権威をいたずらに空費し続けることになりはしないだろうか。選挙制度の平等には勿論一票の算数的平等も加味しなければならないが、地勢的平等や国際的・国境周辺部の意見集約も含めた平等も加味しなければならないだろう。