日本人の矜持。
私が小学校に上がった頃の記憶である。家族で初詣に出かけた宮島での出来事が今も鮮明に脳裏に残っている。厳島神社の回廊まであと僅かの海岸通りに差し掛かると、何処からともなく物寂しい「戦友」の調べとヘタな歌声が聞こえてきた。
いきなり父が兵隊帽を冠り白装束を着て路傍で物乞いをしている人たちに問い詰めた。「なにをやっている。貴様は何処の部隊だった。何処で戦傷を負ったのか。厚生省援護局に届けているのか。こんな無様な真似は止めろ」と父は物乞いをしている数人の者たちを詰った。
そういう父も傷病兵だった。大正九年生まれの父は赤紙で召集され、広島第五師団捜索連隊に所属して中支を転戦した。部隊が騎兵隊から編成替えとなりビルマへ転戦する直前に父は肺結核を発病して復員した。その後戦友たちはビルマ戦線で全滅した。広島も原爆投下の悲劇に見舞われたが、父は家族を連れて療養のため疎開していたため難を逃れた。
大正九年生まれの日本男児の約7割は戦死している。戦争によって青春のみならず人生までも奪われた年代だ。奇跡的に戦禍を生き残った父も生きていれば91歳だが、7年前に84歳で肺癌で亡くなった。その子たちも還暦を過ぎ、この国の未来を次世代に託す年齢に差し掛かっている。そして思うのはこの国が独立国家として余りにみっともない姿を世界に曝していることだ。
日本は敗戦により帝国主義を捨てた。戦力の脅しにより世界各国と優劣をつける外交手法も捨てた。しかし日本人として矜持まで捨てたつもりはなすはずだ。先人の名誉を毀損して謝罪し、自分たちが上手く立ち回るなぞというバカげた外交を展開する日本を残すためにかつての青年たちは戦死したのではない。誇り高い日本という国家と国民のために当時の青年たちは悩みながらも戦火に散ったのだ。
野田首相は戦争に命を散らした青年たちに「自分は日本の国家と国民のために政治を行う」と宣誓できるだろうか。名もない一兵卒たちに対して「あなたたちの死を無駄にしない」と断言できるのだろうか。その上で、靖国神社参拝を拒否したのだろうか。
そろそろ米国のマインドコントロールから目覚めようではないか。米国は戦後世界で何をやって来たのか。今後も何をやろうとしているのか。米国だけが帝国主義さながらに他国の主権を土足で踏み躙って恥じない国ではないだろうか。
この国の官僚たちは誰に奉仕しているのか。この国の司法当局は誰のための司法を実行しているのか。小沢氏を微罪ですらない謂れなき捏造疑惑で大袈裟に小沢氏の人格を毀損するのはなぜか。彼らは誰のシモベなのか。
日本人には毅然とした矜持があったはずだ。この国と国民をどうすれば安寧に日々を送れるようにできるか、先人たちは心血を砕いて戦前の欧米列強の帝国主義者たちと対峙した。その辛苦を無駄にしているとしか思えない戦後政治家の多くに「日本人としての矜持はあるのか」と問いたい。