菅政権の反省なき野田政権。
菅政権の閣僚経験者がゾンビのように野田政権で甦っている。かつての自民党政権は派閥政治と揶揄されたが、いかに大派閥といえども首相交代時には政権交代を模したかのように閣僚は非主流派から登用されたものだ。
鉢呂経産大臣がバカげた舌禍により辞任し、その後継に枝野氏が就任するという。前菅政権下の閣僚が一体何人甦っているというのだろうか。菅政権の失政は菅氏の個人的な問題であって閣僚たちは埒外だとでもいうのだろうか。ましてや枝野氏は官房長官という首相の女房役を勤めた人物だ。亭主だけを排除すればあとはどうなろうと知ったことではないということなのだろうか。
いや、そもそも野田氏は菅政権の財務大臣という主要閣僚だった人物だ。それが横滑りとでもいうべくして首相になった。野田氏そのものの政治姿勢が問われなければならないが、大マスコミは本質的な議論よりも「泥鰌だ、泥鰌だ」とどうでも良い言葉の綾をつかまえて燥いでいる始末だ。
2009マニフェストを反故にして、財務省のペーパー通りに増税・増負担路線をひた走る野田氏の政治姿勢をこそ問題にしなければならないだろう。しかし大マスコミは押しなべて増税路線に寛容で、むしろ増税を待ち望んでいるかのような論調だ。それが国民目線の報道機関といえるだろうか。
この国から健全なマスコミが失われて久しい。鉢呂氏の失脚にしても福島から帰った鉢呂氏を取り囲む親しい記者たちとの戯れ合いの中で出た発言だったという。その程度のことを針小棒大に「問題だ、問題だ」とあげつらって血祭りに上げた。大マスコミの記者たちの卑しい品性には驚くばかりだし、その報道を真に受けて「鉢呂氏の見識を疑う」と大真面目に論じるテレビ報道番組のコメンテータたちは愚かなる幇間に過ぎない自身の発言をビデオで検証しないのだろうか。もしも検証すれば恥ずかしさで発狂寸前となり、布団を頭からかぶって喚くに違いない。
鉢呂氏の辞任劇はこの国を破壊している張本人がよく解る出し物だった。その張本人にカネを払って踊らされている国民の不幸は戦前の国民そのままだ。大本営発表を頭から信じて微塵も疑わない国民によって戦争は楽々と遂行され、国民は塗炭の目にあわされ、多くの他国民にも戦火の被害をもたらした。この国の国民が歴史から「報道機関のいかがわしさ」を学ばないとしたら、そうしたことをまた繰り返す危険性があるということだ。