福一原発周辺は「死の街」ではないのか。
福一原発事故で周辺は高濃度放射能汚染され、住民は暮らすことを禁止されている。それを以て「死の街」と表現したことが経産大臣を辞任すべきことなのだろうか。言葉で現状を比喩したことがそれほど悪いのなら、そう比喩されるほど酷い現状を出現させた因果関係者の責任こそ大マスコミは追及しなければならないだろう。
誤解を恐れずに言うなら、福一原発は地域住民も建設を容認したのではなかっただろうか。いかに東電や経産省官僚が「安全だ」と言っても、その安全は一定の想定の上に立つものでしかないと、学者は警鐘を鳴らさなければならなかったはずだ。学者は科学者としての良心を持つと無意識のうちに国民は思っているが、その学者までもが東電とグルになって現地住民相手に「原発は安全だ」「プルトニュウムは舐めても死なない」とか「放射能はかえって健康に良い」などと飛んでもない発言を繰り返していたのだ。しかしそうした国家規模の詐欺にあったとしても、更に科学者ぐるみの「安全神話」洗脳に巻き込まれたとしても、地元住民が原発建設を容認した事実は消えないだろう。
かつて大マスコミは原発の危険性を報じなかったどころか、そうした諸々の人たちの責任追及を放置して、客観的事実を言葉にしただけの「脱原発派」の鉢呂氏を責めに責めて大臣の椅子から追った。まるで小学校のタチの悪いツゲ口児童と、判断能力を失ったバカな教師がツゲ口された児童を叱っている図のようだ。この国はそこまでおかしくなっているのだろう。大マスコミの劣化は著しく、テレビの「右向け右」画一報道にはゾッとする。テレビ局によっては鉢呂氏を擁護する論陣を発信する局があっても良いのではないかと思うが、あたかもこの国には「報道の自由」がなくなっているかのようだ。