政治家の公的発言と私的発言とではマスコミの扱いも異なるべきだ。
記者たちは政治家にまとわりついて取材に鎬を削っている。その実情は理解しても、人が生き物であり公的存在と私的存在を認めるなら書いてよい記事と書いてはならない記事が存在するのも当然のことではないだろうか。さもなければ政治家が公的な時だけ記者の取材を許し、私的な部分では記者たちを遠ざけて接触しない方針をとっても仕方ないだろう。そしてマスコミも政治家のそうした方針をオフレコを問題化した対抗措置として認めなければならないだろう。
それを情報開示を旨とする政治家としておかしいのではないかと批判するのは得手勝手だと言わざるを得ない。鉢呂氏の発言がオフレコであった約束のものが大きく取り上げられ、言葉刈りのように針小棒大にあげつらって辞任へと追い込んだ。記者たちの責任は一切問われないで、鉢呂氏の責任問題だけを大マスコミが執拗に攻撃したのは公平を欠いた態度だったといわざるを得ない。
大マスコミは何をしても許される、という思い上がりがあるのではないだろうか。「死の町」発言は現実を的確に表現したもので何ら問題ではない。放射能被害に遭って避難している人たちの気持ちを逆撫でしている、と批判した大マスコミはそうした地域を放射能汚染した東電と原子力関係者の責任をこそ追及すべきではなかっただろうか。もっといえば、大マスコミもそうした危険性を長年追求することもなく「安全神話」の拡散に協力してきた実態を真摯に反省すべきではなかっただろうか。
社会には一定のルールがある。法律に明記されたものもあれば暗黙の裡に成立している取決めまで含めて、様々な約束事で成り立っている。大マスコミの記者たちも「取材の自由」を主張するのなら馬鹿げた記者クラブの存在を恥じるべきだろう。取材の自由はすべてのマスコミ・ジャーナリストに認められているはずだ。自分たちの情報の非開示性と独占的振る舞いには目を向けないで、政治家に対して言いたい放題というのは大マスコミの幼児的体質そのものだと指摘されても仕方ないだろう。鉢呂氏の幼児的振る舞いを論う記者たちは自分たちと同じ匂いに敏感に反応したのではないだろうか。