「生の声」は正しいのか。取るに足らない論評を正当化する手段に過ぎないのでは。

  新聞やテレビが好んで使う「国民の生の声」戦法だ。いかにも全体の意見を代表していて、公平・公正な世論であるかのように装うのは「世論調査」と全く同じ手法だ。しかし生の声のすべてを記者が聴取するのは不可能だし、聞いたすべてを掲載しテレビで放映するのも不可能だ。そうするとマスコミの受け取り手の国民には「加工された」生の声が届けられているに過ぎないと認識するしかない。つまり「生の声」といいつつ、それは大手マスコミの論評そのものなのだ。


 


 


<民主党代表選の立候補者が出そろった27日、避難生活を続ける被災者らは不安に包まれた。「脱小沢」か「親小沢」か。未曽有の大震災からの復興も進まない中、相も変わらずそんな政治ショーが繰り広げられていると被災者の目には映る。「私たちのことを本当に考えてくれている人がいるのか」。不安は怒りに変わりつつある。>


ーー以上「産経新聞」引用。


 


 災害復興が遅々として進まないのは政権の無能も要素の一つだが、最も大きいのは「指示待ち」を装う官僚たちのサボタージュだ。大臣や政府が指示したことしか現場が行わない、行わないどころか実際の現場へ出向いてどのような状況か、政府審議員クラスの者が実査するために現地踏査しているのか。


 そうしたことよりも「災害復旧スキーム」作りに忙しく、復興予算に必要な金額が積み上げられて「財源問題」が惹起されて国民世論に定着させる時間がかかればかかるほど「増税・増負担」議論が容易になるとの財務省の読みもあるだろう。


 


 そして「党員資格もない」小沢氏を軸に代表選が推移するのはケシカランという議論そのものが実に政治をバカにした議論だ。本来なら小沢氏本人が代表選の最大候補になるはずだった。それが民主党執行部の愚かな「党員資格停止」処分により、国民から選ばれた政治家の権利を停止させてしまった。国民の「権利」を代行すべき付託された国会議員の権利を国会議員からなる政党が制限するとは何たる愚かなことだろうか。司法権を侵害しろとはいわないが、少なくとも「最高権力の立法権の府」たる国会の権威を貶めないように背筋を伸ばして他の権力機関と対峙することが求められる。そうした気概もなく、「起訴段階」での「党員資格停止」とは一体なんだろうか。そうした見識なき処分が今回の摩訶不思議な代表選の状況を創出しているのだ。


 


 しかし「それにしても」と声を大にしなければならないのは、民主的な手続きに則り次期代表を選出しようとする「民主的な多数派工作」を不毛な政争だと論じる愚かさを「国民の声」としてすり替えて論評する新聞社のいやらしさを感じるのは私だけだろうか。産経もさすがに代表選を実施するのは政争ではなく「民主的な手続き」だと承知していて、その上で猶も政治家を貶めるために「野卑な国民の声」を利用して批判しているのに過ぎない。むしろ記者はそうした声を上げる国民に対して「多数派工作をしなければ当選できない代表選は最も民主的なのだ」と説明しなければならないだろう。


 


 この国の言論界から多少なりとも「マトモ」な言論人が不在となって久しい。そこに居るのは姑息な「世論」乗っかり独善的な論旨を展開する評論家か、取捨選択した「街頭インタビュー」で国民に<これが世論だゾ>と刷り込みコメントする御用評論家ばかりだ。何よりの証拠がテレビ報道番組でコメンテータたちが激しくテレビカメラの前で論争しないことだ。彼らは一定の意見に集約され加工された台詞を発するだけの案山子たちだ。決してコメンテータでもなければ評論家でもない「頷き」動員された飾りに過ぎない。そうしたバカげた出演者に支払うギャラや発言時間があるなら、もっと多くの国民の声を編集なしで取り上げて、本当の「生の声」だけを放映することだ。テレビ局による「加工」は必要なく、事実だけを伝える誠実な大手マスコミであってもらいたい。


 



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