「苦と楽を 差し引きすれば 浮き世の値 わずか三銭」
「苦と楽を 差し引きすれば 浮き世の値 わずか三銭」とは高杉晋作の言葉だ。天保10年に生まれ慶応3年にわずか29歳で明治維新を見ることもなくこの世を去った男、幕末の風雲児高杉晋作にしてこの達観した言葉はいかにも重い。
菅氏は高杉晋作にあこがれ、自らの内閣を「奇兵隊内閣」と銘打っているようだが、泉下の晋作が耳にすれば「やめてくれ」と即座に首を横に振るだろう。
高杉晋作は出世欲と無縁な人生を送っている。長州藩士高杉小忠太(大組200石)の嫡子として生まれた。父も小姓役を勤めたように晋作も小姓役を勤め、毛利敬親やその養子元徳と親しく、長州藩で出世を約束された家柄だった。しかし19歳の折に従兄の久坂玄随に誘われて萩郊外松本村の吉田松陰の私塾に入門した。当時吉田寅次郎(松陰)は幕府の罪人であり長州預かりとして閉門蟄居の身だった。しかし長州藩は松陰の才を惜しみ、家で私塾を開いても黙認していた。
罪人が教える私塾へ通うことは萩城下では憚れていた。しかし藩校明倫館で秀逸な学才を示し剣も柳生新陰流免許皆伝と、文武ともに優れた上士の子弟がわざわざ松下村塾に入門した。おそらく鎖国の国禁を犯してペリーに乗艦を求めた男の進取の気性が高杉晋作の琴線に触れたのだろう。それ以来、高杉晋作は吉田松陰を「先生」と終生敬っている。
菅氏は高杉晋作に遠く及ばない。たとえば元治元年功山寺挙兵から翌慶応元年に萩の守旧派を破り山口に新政府を樹立した際、高杉晋作にしかるべき役職に就くよう求めたが、頑として受けなかった。それどころか伊藤俊介(後の伊藤博文)に道案内させて西洋へ文明視察旅行に発とうとした。
政権に恋々としてみっともなくしがみついている菅氏の無様さは歴史の笑い話として語り継がれるだろう。幕藩体制を回天させるべく奔走した高杉晋作に言わせれば「他人の褌で相撲を取る厭な奴だ」と吐き捨てるだろう。菅氏はさっさと小沢氏に政権を返すべきだ。これ以上民主党政権を貶めてはならない。政権交代に懸けた国民の願いを踏み躙り、官僚に丸投げの自民党以下の政権は万死に値する。