原発は「安全性」さえ確保できれば再開して良いのか。

 そもそも原発の安全性とは何だろうか。ある程度の自然災害を想定した事態に直面しても放射能漏れの事態を引き起こさない、というのが安全性だとすれば、これほど危険なことはない。


 福島第一原発では「想定」を超えた津波による原子炉破損、だとしているがはたしてそうだったのかすら検証は済んでいない。いや津波の前の地震があった際に原子炉内部の細管が破損して原子炉は放射能漏れを起こしていたのではないかと疑われている。いやそうではない、そうした安全性さえ確保できれば良いという議論すら間違いだという意見が噴出している。


 つまり、原子炉の運転に伴い必然的に排出される放射性廃棄物や使用済み燃料などの高濃度放射性廃棄物の最終処分すら、この国では出来ない状態だ。原発がトイレのない高級マンションだと比喩されるゆえんだ。


 


 そうした根本的な議論をしないで「安全性」にばかり言及する政府や与野党国会議員、更に大手マスコミやその配下にあるテレビなどはどのような料簡を持っているのだろうか。半減期まで数千年から一万年に及び、無害化するのに十万年も必要な放射性廃棄物を人類はどのようにして保管し管理し続けるつもりだろうか。


 人類は手を出してはならない悪魔の炎に手を出したのではないだろうか。それが便利であろうとなかろうと、人類は子々孫々のためにも原子力などに関わってはならなかったのではないだろうか。


 


 原発を推進する電力会社や学者や評論家など、それに「安全」と折り紙を与える官僚たちは原発敷地内に居住すべきだ。彼らが暮らすことにより安全性のお墨付きとなるだろう。そうでない限り、原発の安全性を気休めの「想定」を設けて宣伝してはならない。それで電力不足になるのなら電力各社は電気を止めれば良い。そうすればこの国で電気事業社はどうあるべきか根源的な議論が始まるに違いない。


 太陽光発電の全量買い取れば電気料金が上がる、といっているバカな評論家には、太陽光発電電気も他の自由な発電事業者と同じく電気消費者が選べるようにすべきだろう。そうすれば高くて買われない太陽光発電電気は発電者が全量消費すれば良い。消費されない電気はバッテリーに蓄電すればいいのであって、電気料金が高くなる「全量買い取り」は止めるべきだろう。そして各種発電装置による電気が自由に価格競争をするような仕組みに発・送電分離して根本から変えなければならない。現状維持を基本的前提としてなされる議論にどれほど時代を変革させる力があるというのだろうか。



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