国のために尽くすとはどういうことなのか。
かねてより国の叙勲制度には懐疑的だった。誰が叙勲する人を決めているのか知らないが、公務として長年働いたというだけで勲五とか勲四とかを頂戴している。常連ともいえる肩書が「元消防署長」だったり「元学校長」だったり「元県会議長」だったりと、国や地域のために尽くしたのは違いないが、当然の職業人の務めとしてやってきただけではないかと思わざるを得ない。
叙勲とは取り立てて評すべき目覚ましい働きがあったのを勲章を与えて公にすることだ。日常的な公務を果たし大過なく日々を過ごしただけで叙勲に値し、高額な共済年金を頂戴するのが「当然の権利」なのだろうか。
叙勲制度におけるものほど官尊民卑が著しいものはない。国家は公務員だけでは成り立たないのは当たり前だが、公務員が公僕としてささやかな報酬で国民のために奉仕したのは昔のことだ。現在では民間企業勤労者の平均年収の二倍近い年収を手にし、月収平均30万円の共済年金を手にしている。それで国も地方も財政危機だから増税に高負担が必要だとほざいている。
自衛隊や海上保安官など命がけで働いている人たちがまさしく我が身を擲って国家と国民のために働くのは叙勲に値する。かつて勲章とは軍人につきものだった。彼の働きを公に評価することによって使命感を高揚させ、士気を高めるのに必要な制度であり、国民も彼の働きに賛辞を惜しみなく与えるべきだ。
しかし長年公職にあったり、各種団体の理事の椅子にしがみついていたから叙勲するなぞというのは筋違いだ。子供が成長していなくなったにもかかわらず延々と「校外育成会長」を勤めていたり、充て職のはずなのに現職を退いてもずっとその椅子に座り続けていたりと、名誉欲の権化のような人は周囲を見回せばいくらでもいる。彼らが決まって口にするのは「自分が辞めたらやる人がいないから」というが、辞めたら次の人はいくらでもいるのに気づくだろう。
叙勲制度はまさしく叙勲であって、目覚ましい働きもない長くその職にあったというだけで表彰するのはやめるべきだ。むしろ弊害の方が多く、人材が停滞しやる気が倦む原因にもなっている。叙勲制度は本来の趣旨へ戻すべきで、事務職などで叙勲とは「厚かましい」にもほどがある。