統一地方選挙の都道府県議選などが始まった。
いつもと同じ県議選挙が始まった。街宣カーに鶯嬢を乗せて候補者は助手席で手を振って「お願いします」と声を張り上げるだけの選挙運動だ。その多くが、というよりすべてが公費助成になっているのをご存じだろうか。
街宣カーはリース料や借り上げ料が公費で負担される。街宣カーの運転手も日当が公費で支払われる。街宣カーのガソリン代も掲示板に貼るポスター代も公費負担だ。
全国全体で選挙にいくらの税が使われるのか、試算したことはないが莫大な金額に上るだろう。それも民主主義のコストと容認するしかないのだろうが、釈然としないのも確かだ。
大都会ならいざ知らず、地方選挙では告示までで選挙は終わっているというのが常識だそうだ。地縁・血縁や会社組織や組合組織、各種団体組織による根回しこそが選挙運動で、それは告示までに終えて、告示後の街宣活動は「お祭り」騒ぎに過ぎないというのだ。
政治家は有権者のレベルを超えない、という箴言がある。県会議員による議員提案条例が年に何件あるか、調べてみると良い。彼らのほとんどは知事執行部が提案する議案に自動的に賛成する追認機関に過ぎない議会が殆どだ。華々しい議論が展開されたとか、執行部提案がひっくり返ったとか寡聞にして知らない県が殆どだ。
福島県もそうだったに違いない。福島原発の事故が起こって福島県民の多くは原発を受け容れたことがこれほど甚大な災害を招くとは思いもしなかっただろう。県議会議員の多くも原発誘致に賛成してきたはずだから、彼らにも責任の一端はある。そして原発賛成の県議を当選させ続けてきた福島県の有権者にも責任がある。民主主義とは最終的に良きにつけ悪しきにつけすべての責任が有権者に還元される仕組みなのだ。
全国に原発を持つ県もたくさんあるし、これから建設をしようと計画の持ち上がっている県もある。福島原発事故を見ると原発から30キロ圏内が退避圏内だから、県議の選挙区外の原発でも争点になるだろう。ここは全国で原発を巡って賛否が選挙の争点ならないようでは有権者の危機意識は所詮他人事だと思わなければならない。
いつもと同じ選挙風景を見て、危機意識の乏しい国民性に慨嘆する。「皆様の手足となって、」と紋切り型の文句を並べ立てるバカな立候補者にも情けなくなる。
「この二十日間、被災地へ行ってボランティア活動をしてきました。従って選挙活動は一切できませんでしたが、よろしくお願いいたします、」と言う候補者は一人としていなかった。国難に当たって最もノー天気なのは地方議員も含めた政治家ではないかと思わざるを得ない。