菅氏は高杉晋作たりえるのか。

 高杉晋作の「奇兵隊」に擬えて奇兵隊内閣と銘打つとは、菅氏は歴史にあまり造詣が深くなさそうだ。


 奇兵隊を創設したのは文久三年の馬関戦争で藩正規軍が仏国や米国の軍艦に砲撃されるや桟を乱して逃走したことから、累代の武士では役に立たない、と慨嘆したことによる。つまり武士は戦死すれば家名を継げなくなるばかりでなく死に方によっては禄を取り上げられる。砲弾による死はまさしく犬死だ。最低でも相手と対峙して名乗りを上げて切り結び果てなければならない。それが武家の作法だった。


 


 しかしそれでは近代戦に役立たない。そこで家名を名乗る必要のない庶民や武士でも家禄を継げない次・三男を集めた。それが奇兵隊だ。萩正規軍と対峙する「奇兵」との解釈もあるが、むしろ洒落っ気のある高杉の真意は「奇妙な軍兵」程度の意味ではなかったかと思う。


 


 奇兵隊が真価を発揮するのは一次長州征伐で萩政府がそれまでの改革派(高杉は正義派と呼んだ)が更迭され、保守派(高杉は俗論派と呼んだ)が牛耳るや国境に迫る15万の幕府軍に怖れをなし、蛤御門へ出兵した三家老と四参謀の首を刎ね、改革派七政務役を投獄した。そうした藩危急の時だった。


 当然高杉にも追手が掛けられ、高杉は一時藩外へ逃亡したが、慶応元年師走に帰藩すると伊藤俊輔(後の博文)と連絡を取り、馬関(今の下関)に駐屯していた奇兵隊をはじめとする諸隊と連絡を取り挙兵を促した。


 


 萩政府の権威におののく奇兵隊や諸隊は馬関に逼塞させられたまま解隊の憂き目にあっていた。当時の奇兵隊の総督赤根武人は萩政府と交渉して諸隊の存続を図っていた。その取引材料として功山寺に残る三条実美卿たち五卿を九州へ移送する、ということだった。かつて七卿の都落ちとして長州藩に逃れた改革派公家たちを長州藩から取り上げようとするのが幕府の意図で、征長軍参謀の西郷隆盛もそれを以て撤兵すべきとしていた。


 


 慶応元年12月15日夜半、高杉晋作は雪の功山寺に挙兵した。手勢は僅かに80。馬関の会所(藩交易税関と奉行所の機能を併せ持つ)を急襲し、翌日には精鋭18で三田尻の海軍局を襲って藩軍艦を奪った。海軍局は幕府により解体を余儀なくされかけていたから、むしろ積極的に高杉に協力した。


 高杉挙兵に驚いた萩政府は直ちに正規軍を馬関へ向けて発進させた。陸路を日本海沿岸沿いの山陰道に約1000、直線的に内陸部を秋吉台北側を迂回する太田・絵堂を通る道へ約1000を馬関へ向けて進軍させた。ただし軍艦を高杉が手にしたことから海に面した萩を海から砲撃されるのではないかと萩にも守備隊を残した。


 


 高杉は対岸の人の見分けがつくほど狭い馬関海峡を挟んで大里や小倉口に滞陣する幕府軍15000に備えるため手勢120とともに馬関に残った。萩へ向けて進軍したのは奇兵隊100の他諸隊約100の併せて200ばかりの軍であった。


 途中で奇兵隊の総督赤根武人は逃走したため新たに総督に山県狂介(後の有朋)が就いて太田・絵堂で萩正規軍と激突した。慶応二年1月6日から三度戦い、三度とも奇兵隊と諸隊が勝利して正規軍を退けた。


 1月15日に幕府軍が撤兵すると高杉晋作は手勢を率いて山県たちと合流し、萩正規軍を急襲して撃退した。


 


 長々と書き連ねたのは歴史をしっかりと認識して欲しいからだ。菅氏は自分を高杉晋作に擬えているが、高杉が果たしたのは幕府に恭順する萩政府を倒したことだ。そして慶応三年の第二次征長戦に幕府軍と戦える軍備を整え、実際に幕府軍と戦って撃退したことだ。


 菅氏が何をしたのか。むしろ現代の高杉晋作は小沢一郎だ。菅氏は幕府軍(米国)に恭順の意を示す萩政府保守派(官僚と自・公政権)の頭目椋梨籐太だ。


 


 高杉軍が勝ったのは何でもないことだ。当代一の軍略家でもあった村田蔵六(後の大村益次郎)が示した軍備を行っただけのことだ。


 村田蔵六はいう。長兵は弱い。なぜなら百姓・町人の軍だからだ。今更槍・刀の訓練は間に合わないから洋式銃を全員に持たせよ。弾丸を装填して引き金を引くだけなら何とかなる。よって元込め銃を装備品とし、兵は軍として動く操練を行うべし。


 事実、元込め銃は火縄銃の十倍の威力を発揮した。



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