秋葉市長を非難する資格があるのか。
本日付の(1/7)読売新聞朝刊編集手帳で今季限りで退任する秋葉市長が記者会見を拒否して動画サイトに退任の弁を流したとして批判していた。
同じ伝でいけば公邸であった首相主催の新年会は「絵」としてテレビで流されなかったが、小沢氏の私邸で行われた新年会は「絵」が繰り返しテレビで報じられ、立って挨拶される小沢氏の写真が新聞紙面を飾った。
これから明らかなのは公邸での新年会に記者は入れなかったが、小沢氏の私邸での新年会には記者のみならずテレビカメラまでも入れたということだ。どちらの側に公開の必要性があるかは「公邸」と「私邸」から明々白々ではないだろうか。
そのことに関して大手マスコミは何処も一言も触れないが、秋葉氏の退任の挨拶を動画サイトでだけで流したことには批判する。市長は退任の挨拶を公式にすべき、との法の定めがあれば記者会見すべきだがそうでない限り、選択の権利は秋葉氏にある。
小沢氏は徹底して公開の原則を貫いている。記者クラブだけでなくフリーランスの記者にも等しく公開してきた。記者クラブ記者の所属する大手マスコミが何をしてきたか、小沢氏は百も承知だ。捏造・扇動・疑惑報道と悪逆の限りを尽くしてきたし、今も「政治とカネ」なるプロパガンダをタレ流している。
大手マスコミの記者に少しは報道ジャーナリストとして矜持があるならそろそろ真実を伝えてはどうだろうか。西松建設をはじめゼネコンから贈収賄があったとの証拠は上がったのか否か、政治資金収支報告書の記載漏れや期ズレはあったのかなかったのか、記者が確認して報道しようと試みてはどうだろうか。それとも今まで通りに会社の編集方針で「小沢疑惑」を煽り立てて国民に誤った報道を刷り込むつもりなのか。
大手マスコミの会社員諸氏は少しは心が痛まないのだろうか。そして読売新聞の編集手帳氏よ、あなたの論説は明白なダブルスタンダードだということに気付かないほど感性が劣化しているのだろうか。事実を事実として伝える簡単なことすら放棄してしまえばジャーナリストは死に絶えたといわざるを得ないが。