民主党ポスターで菅ヌキとは。
街頭の民主党ポスターはワイシャツ姿の菅氏でいかにも寒そうだったが、地方から菅氏の顔写真のポスターを撤去してくれとの声で今度の貼り直しを機に菅氏の姿が消えるという。いかにもサムイ首相なのは間違いないが、その菅氏を首相にせよと9月の代表選挙で大きな声を上げたのは地方議員やサポーターではなかったか。
自分たちの都合で首相を選んでいるのか、と民主党を支えている人たちに問いたい。そんな微視的な観点から政権交代の波に乗って民主党の国会議員や地方議員になりサポーターになったのか。それなら9月の代表選挙で小沢氏が大差で落選したのも頷ける。信念も何もない大マスコミ誘導の世論という波に乗っただけの人たちなら、流行が去ればすぐにでも古ぼけたファッションは脱ぎ捨てるのだろう。
言うまでもないことだが『生活が第一』は小沢氏のもとで策定された民主党のスローガンだ。貼り換えるポスターが本当にそれで良いのか。本当にそれで良しとするのなら、民主党はまさしく理念なき野合の衆の集まりだ。
菅氏は成長戦略にかじを切ったはずではなかったのか。菅氏のワイシャツ姿の傍らに並ぶコピーはそのように受け取れる。まさしの高度経済成長期を髣髴とさせる「夢と希望よ再び」と呼びかけるポスターだったが、彼の口から具体的な成長戦略は聞かれなかった。
それどころか、任を託した大臣から放言が出たり要と恃んだ官房長官が単に横柄な独善家だったりと、菅氏の人を見る目は節穴そのものだった。ここは潔く退陣して小沢氏に後を託すことだ。小沢氏を排除した政権が行き詰れば小沢氏に代わるのが筋だろう。強制起訴される人だから首相になれない、とする法規定があれば示してもらいたい。しかも、その起訴は憲法違反の恐れのある実にいい加減な代物だ。
国家と国民のために大マスコミは改心して捏造報道・疑惑報道をやめるべきだ。国民が知りたいのは真実であり、知る権利とは真実を知るということだ。事実以外の論評や憶測や推理小説もどきの推量記事は必要ない。事実のみを報道して判断は読者たる国民に委ねるべきだ。
いやしくも政治にかかわりを持とうとする者は半年やそこらで宗旨替えしなければならないような人物を担がないことだ。そして一旦担いだならばとことん担ぎ続けるべきだ。
ある評論家が一時期小沢氏を担いで、どうでも小沢氏が検察から逃げきれないと踏むと批判に転じた人がいる。それが人間というものかもしれないが、いかに底の浅い人物か世間に宣言したことになると、そのうち気づくだろう。