主客転倒の議論だ。

 公の徴税権は国民の生命と財産を守るために付与されている。それが国家としての一義的な使命である。


 その一義的な使命を日本では国防以外は「保険」と銘打つ制度で受益者負担だとか、応能負担だとか、官僚のいい加減な理屈で運用されてきた。


 


 国民の加入が義務付けられている各種「保険」は果たして保険なのだろうか。国民の納税義務として様々な形態で税を徴収されているが、それらは本来国民の生命と財産を守るために発生したものだったはずだ。


 本来の税の役割からいえば、健康や年金や介護などは「保険」制度で運用されるべきものではないはずだ。それらは税で賄われるべきではなかったか。


 


 厚労省は社会保障を「保険」と称することによって、国民に別枠の負担を強いても「別枠」だと感じさせないレトリックを用いた。国民も尤もらしい「受益者負担」という言葉で自己負担部分以外は「保険」で賄うのが当然だと思わされ、事実そのように刷り込まれてきた。しかし、生命と財産を守るために税があるのなら社会保障こそが税で賄う必然性の最も高い費目のはずではないだろうか。


 


 国民は長年官僚たちによって飼い慣らされてきたのではないだろうか。もっと端的にいえば、誤魔化されてきたのではないだろうか。


 各種「保険」で賄われている、とのレトリックにより各種団体と重複し錯綜する徴収制度と支給制度がこの国に複雑に張り巡らされ、行政の高コスト体質を温存してきたといえる。


 世界で日本と北朝鮮と二三のアフリカ諸国しか採用していない「単式簿記」を日本の官僚は官庁簿記に採用してきた。これほど総額の見えにくいチマチマとした特会の存在を許す錯綜した会計は官僚にとって好都合なのだろう。


 


 会計学を少しでも学んだ者なら複式簿記が企業会計に採用されている理由を明快に述べることが出来るし、単式簿記よりも優れている点を挙げることは簡単だ。しかしこの国の官僚はそうではないらしい。そして官庁簿記の会計基準がいかに緩いものか、企業会計原則と照らし合わせれば明確だ。


 特会の存在は複式簿記では総額主義の原則から許されない。そしてB/Sの存在から国有財産とその取得価格が一目瞭然になるだろうし、減価償却から耐用年数の概念も明快になるだろう。


 


 なぜ会計にまで話を拡げたのか。官僚の掌で踊る政治家のバカさ加減を話したかったからだ。どんな中小企業でも金銭出納帳しか付けていなければ税務署で御叱りを受ける。しかし国は金銭出納帳しか付けていないのだ。この優秀な官僚をして税務署で御叱りを受ける程度の会計帳簿しか付けていないのだ。それも特会の存在を国会議員の目から見えなくするためだ。そして国会議員は小難しい会計議論をずっと避けてきた。


 


 今回は「税」による補填ができなくなったから年金を引き下げるという。「保険」会計も収支バランスを取らなければならないからだ、という。


 そうした小手先の議論はそろそろやめよう。社会保障はすべて税で賄うことにしよう。それには消費税を充てることにして、そうすれば欧州諸国のように20%近い税率になるかも知れないが、各国で食品が別枠とされているように貧困層に配慮した消費税のあり方を検討しなければならない。その代わり天引きされていた各種「保険」がなくなる。官庁の各種「保険」徴収部局とそれに携わっていた各種団体は廃止となる。そして徴収業務はすべて国税や地方税当局に一元化される。財務省も国の財布に一元化された予算で国家経営を行うことになる。そのことの方がどれほど多くの無駄を省くことが出来るだろうか。


 


 小賢しい官僚の応能負担だとかいった屁理屈に付き合わなくて良くなる。企業も企業負担部分を負わないために正社員にしなかった要因が一つなくなることになる。


 税を税たらしめ、国の使命の根源的な役割を税に果たさせよう。チマチマとした各省庁の利権確保のための特会議論はすべてやめよう。食料安定供給特会も、空港特会も、電源特会も、道路特会も、すべて財務省徴収に一元化しよう。そして国会議員はしっかりと財務省に入ったカネの行先に目を光らせよう。それこそが議員の仕事だ。



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