古い体質へ逆戻りなのか。
派閥は中選挙区の時代の遺物かと思っていた。同じ選挙区で同じ自民党候補が競うことから同じ仲間として「仲良しクラブ」を組むのが困難だからいろんな派閥が発生したと思ってきた。しかし小選挙区でも派閥が必要だというのは「仲良しクラブ」としてではなく、派閥のもう一つの顔である「利益共同体」としての役割が消し難いほど国会議員の体に染みついているからなのだろうか。
それが新人教育の場として必要だというのなら理解できない。党中党といわれ、その弊害が指摘され解体の運命にあるものだとばかり思っていたが。もっとも民主党でも族議員の温床として自民党の政調を非難をしていたが、政調が必要だとして復活した。そして早くも政府に族議員さながらにTPPなどで異論を挟んでいる。
党と政府の意思疎通がなかなかうまくいかないのは国の政治と個人の選挙事情で観点の相違があるのだろうが、それなら政権を獲らないことだ。政権さえなければ党といっても個々人が勝手な発言をしても弊害はない。しかし政権党となれば国をどうするか、という観点を持たなければならない。国と国民に対して責任を持たなければならず、国会議員の個人的な事情から政策を考えるのなら一人店主のようなミニ政党を作らざるを得ない。
そうしたミニ政党が派閥で派閥の連合体が党だというのならかつての自民党だ。自民党は党中党を抱えて自民党内で政権交代をしてきた。それが必要だというのなら民主党の政策が個々人で異なるのを笑えない。そういえば自民党は幅の広い党だと胸を張っていた時代があった。民主党も幅の広い党だと胸を張れば良いのだろうか。いや、そうではないだろう。
国会議員は法的には国政選挙で当選すればなれるが、真の国会議員たらしめるのは不断の努力だろう。勉強もさることながら疑問があれば官僚に説明を求め、専門家に意見を聴きに行く。そうした努力の中から新たな人間関係も構築できるのではないだろうか。国会議員の真の財産は若い頃に努力して作った人間関係のはずだ。それが新人教育の機関として派閥が大事だ、というのなら料亭政治でも復活させてお座敷芸でも伝統芸として継承させるつもりなのだろうか。
政治家は当選してすぐに政治家として評価されるものではない。当選当初は新人議員として「雑巾がけから」始めるべきだ。それを檜舞台にあげている現在の自民党の層の薄さを危惧する。薄っぺらなパフォーマンスよりもしかるべき見識を備え経験を積んだ議員同士の丁々発止の論戦を望む。新人議員は自ら国会議員になるのであって、薄っぺらな人格は薄っぺらなパフォーマンスを繰り返して擦り切れて消えていくのだ。すべては議員の自己責任である。派閥の復活は利権構造の再構築に他ならない。