矛盾に満ちた「浪人日記」だ。

 中田宏氏がいかにポピュリズムの申し子か歴然とする論評だ。強制起訴される小沢氏には「推定無罪の原則」が適用されるが、検察により起訴された三人の秘書に関して責任を負わない小沢氏は政治的責任を果たしていないと断じている。起訴された三人の秘書にも判決が確定するまでは「推定無罪の原則」が適用されるのは言うまでもないことだ。


 しかも検審会の強制起訴を「民主主義の勝利」でもあるかのように持ち上げるのは見識を欠く「市民礼賛者」を暴露したものだ。市民感覚がいかに恐ろしいものか、戦前の日本を知らない中田氏には理解できないのだろう。


 


 それよりも検察が強制捜査しても小沢氏を起訴するだけの証拠を手に出来なかった事件を「民主的な市民」が起訴するのは素晴らしいことだと絶賛するとは決定的に政治家としての資質に欠ける。市民の決定が「法と証拠」よりも素晴らしいのなら法律の専門家による公訴権は今後無意味となる。すべては市民による起訴によって裁判を始め、市民による裁判員によって裁きをつければ良いことになる。それがいかに危険なことか、という反省から近代国家は法による支配を確立してきたのだ。


 常に市民が正しいとはいえない。時として集団ヒステリーとなって暴走しリンチを起こしかねない存在だ。それを戒めるために法の専門家による公訴権と裁判権を確立してきたのだ。


 


 市民による強制権への関与は、第三者による民主的な検証が可能でなければならない。必ず何らかの歯止めがかかるような仕組みを作っておかなければ、特定の人たちによって利用されかねない。現在の検審会の仕組みは、そうした意味では必ずしも民主的な仕組みが備わっているとはいえない。まるでブラックボックスと化した非民主的な存在そのものだ。そうした検審会の議決によって起訴された小沢氏が被疑者であり、起訴の議決を出した者たちは「無責任」にして「安全」な立場に安穏としているのだ。これほどの不公平があるだろうか。


 


 そうした検審会制度のあり方にはまったく触れず、起訴された小沢氏に政治家として責任があるとする中田氏にどれほど論理的合理性があるだろうか。そして浪人しているのなら小沢氏の三人の秘書と小沢氏本人の事件に関して詳細に事実関係を紐解く時間はたっぷりあるはずだ。たとえば小沢氏の疑惑の出発点とされている不動産取得に関して、その登記簿謄本ぐらいは手にして検証しているのだろうか。もしも単にマスコミ報道のままに理解しているとすれば、中田氏には人気取りの政治評論家は勤まっても、国を動かす責任ある政治家には不向きだ。自分の目で真実を確かめようとしない者の発言はついに噂話の域を出ないものだと心しなければならない。



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