バカな国会議員を選んだのは誰だ。

 民主主義にはこうしたことがある。数の論理で物事を決めることから、間違っていても数さえ多ければ間違っていることを認識しないで突き進むことになる。その際の推進力は大マスコミの作った世論という魔物だ。


 


 「戦争に勝ったから菅氏がどんな人事をしても良い」という議員は人として失格だ。絶え間ない自己検証と反省がなければ国政担当者として相応しくない。ヤクザの抗争でもあるまいに、勝ったから何をやっても良い、というのなら小沢派が首班指名で谷垣票を投じたら、その瞬間に民主党政権は瓦解する、という想像力も持ち合わせていないのだろう。


 


 小沢氏がそんなことをしない、とする根拠は何処にもない。余り人を追い詰めないことだ。


 菅氏という市民運動家が首相になったというが、それはどうやら間違いのようだ。権力欲の旺盛な者が市民運動家の仮面をかぶって首相の座に就いた、というべきだろう。首相の座に就いたら即座に市民運動家の仮面をかなぐり捨てて、政権延命だけを考えるようになった。


 


 残念ながら人には器というものがある。菅氏は首相の器になかった。権力欲の強い批判家であり続けるべきだった。それなら大した禍根を残さないで生涯を終えたかもしれない。


 菅氏がやっていることは自民党以上に自民党的な官僚制内閣の実現だ。厚労官僚の評判が悪いからと厚労大臣の首を挿げ替えたり、明確な国家観すら持たない人を国家公安委員長に据えたり、大きく官僚に擦り寄った布陣を敷いてしまった。


 


 確かに、官僚に擦り寄れば官僚が政策や根回しをやってくれるから大きなミスはしないで済む。官僚のサボタージュもなくなるだろう。その代わり官僚の天下り禁止や無駄遣い撲滅や人件費削減などはできなくなった。国民は官僚利権が大手を振って増殖するのを眺めるしかない。国民によって選ばれた政治家が国民の目線で政治をするのではなく、官僚に丸投げしてしまったのだから仕方ないだろう。そうした政権を選んだのも民主党員や民主党地方議員や民主党国会議員だ。つまり最終的にすべての責任は国民個々人に帰するのが民主主義の原理だ。官僚は何をやっても罪に問われることはない。


 


 小沢氏という不世出の政治家を葬ろうとする大マスコミの策動に乗って政権の座に就いた菅氏とその仲間たちのやっていることは、まさに民主主義と称する茶番に過ぎない。見たくもないが、すぐに幕が閉じられるからその間だけ我慢しよう。しかし小沢氏を挑発しすぎると民主党そのものが瓦解してしまう。小沢氏に名誉欲は希薄で、政策遂行欲があるだけだ。そのために有効と思われる手段は何でも取りうる。余り、小沢氏を挑発しないことだ。



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