「中間派」という卑しさ。

 「自分は菅氏支持でもなく、小沢氏支持でもない」という議員を中間派というのだそうだ。彼らが迷っている理由は様々だろうが、いやしくも政治家として自己責任で明快に価値判断すらできないのか、と思うし、出来るだけ多くの人の意見に従って出来るだけ多くの人の支持を繋ぎ留めておきたいとする下心が透けて見えて、何とも卑しく見えてくる。


 


 司馬遼太郎の幕末長州藩の吉田松陰から高杉晋作までを描いた「世に棲む日々」という作品がある。その中で高杉晋作が俗論派萩政府に対して決起した絵堂・大田から明木までの「内訌戦」に勝利した下りがあるが、高杉軍は最終決戦で萩に攻め込むのではなく、いったん山口に退き、そこに拠点を置くと萩政府を囲い込むように「鶴翼の陣」をしいた。つまり直接対決による犠牲者を出すのでなく、圧力をかけることで俗論派の内部崩壊をもくろんだ。


 すると萩政府の中から鎮静委員なる調停する勢力が現れ、高杉と萩政府との仲立ちをつとめた。その鎮静委員なるものの存在を司馬遼太郎氏は痛烈に批判している。司馬氏にいわせれば椋梨籐太を首魁とする俗論派と高杉を大将とする藩政府反乱軍(高杉たちは「正義派」と称したが)が血で血を洗う戦いをしている間は首を竦めて物陰に逃げていた者たちが、勝敗の帰趨が決すると大きな顔をして出てきて「調停」なぞと小賢しいことを行う。なんとも卑しい者たちだ、ということのようだ。


 


 この度の中間派が管氏と小沢氏との綱引きの勝敗がどちらに傾くかを見極めてから態度を表明するのなら、司馬遼太郎氏から「小賢しい連中だ」と唾棄されるだろう。


 司馬遼太郎氏の作品に登場する人物の多くは自身の損得ではなく、この国を何とかして西洋列強と伍して発展させたい、という止むにやまれない情熱に突き動かされて歴史の渦に飛び込んでいった人たちを取り上げている。村田蔵六であり、坂本竜馬であり、吉田松陰であり、高杉晋作であり、大久保利通であり、西郷隆盛である。そして小藩でありながらなんとか独立自尊の道を探り、ついには負けると承知の上で官軍と戦わざるを得なかった河井継之介である。彼らに共通するのは強烈な「志」だ。


 


 次の選挙でも勝ちたい、と思うのは人情だが、世論を気にして態度表明しない連中は「当選こそが議員活動」となっているのではないだろうか。再選こそが唯一最大の目的となっているのなら何とも情けない議員だといわざるを得ない。さっさと落選してもっと「志」のある人物と交替する方がこの国のためだろう。


 国会議員として一年、菅氏と小沢氏の資質をきちんと評価できないようでは仕事は何もできないといわざるを得ない。好悪の念だとか、恩義だとか、人間関係で決める類のものではないはずだ。一国の総理を決めるのに菅氏の三ヶ月間の仕事ぶりを見れば適任かどうか分かるし、それでも一年に三人も代えるのは良くない、というのなら二人なら良いという根拠を示して戴きたい。


 


 サポータや支持者から小沢氏に関する「政治とカネ」問題を持ち出されたら「人を風聞で判断してはいけない」と窘めるぐらいの見識ある行動をとるべきだ。検察が不起訴としたことから無罪証明は尽きている、という小沢氏の説明に納得しないとするのが世論調査で80%もいるという。それなら何を言っても納得しない連中だから、相手にしないことだ。法と証拠よりも大マスコミが連日流したプロパガンダの方を信じる程度の国民なら、この国は大マスコミの誘導によりどうにでもなる国だということだ。そうした事態を放置して迎合するのではなく、国会議員たる者は「法と証拠」に基づかない悪口には断固として対決する気概を示さなくて大マスコミよりも慇懃無礼にして姑息な官僚と立ち向かえるのか。


 


 中間派という何かさもしくも卑しい存在に自らを置いて、自身の価値を高めようとするかのような行動は政治家として不適格と自ら烙印を押しているようなものだ。ここは自らの運命を小沢氏に賭けて、国家と国民に為に意を決すべき時ではないか。



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