育児放棄や虐待による子供たちの受難。
何とも痛ましい事件が相次いでいる。身勝手な親により犠牲になっているのが嬰児や子供たちだ。先日も一歳と三歳の姉弟が母親の育児放棄でワンルームマンションの一室で息絶えていた。
近所の人たちが異様な泣き声で児童相談所へ連絡し、三度も係りの者が訪問したが幼い命を救うことはできなかった。彼らが短い人生でどれほどの深い絶望を味わったかと思うと胸が痛む。
児童相談所の係員は法的に強制立ち入り調査できるようになっているが、それを実施するにはかなりややこしい手続きが必要になっているようだ。たとえば二回以上訪問して保護者と相談することや、虐待されている子供たちの存在が確認できることなど、緊急に子供たちの命を救うようにはなっていない。
では米国はどうなっているのかというと、児童相談所へ「子どもが虐待されているのではないか」との通報があると、直ちに警察官と児童相談所の係員が駆けつけて強制立ち入り調査できることになっている。たとえ間違いであろうと、子供の命が失われるよりは良いとしているのだ。
この国はいつから人権を異様に保護するようになったのだろうか。命を失うかもしれない子供たちよりも親たちの人権の方が優先されているのだ。警察の捜査権と児童相談所の子供たちの人権擁護とを同時に発揮できるようにこの国も法整備が急がれる。
また、米国では子供たちだけで車内に放置すれば直ちに児童虐待として逮捕されても文句を言えない法律になっている。この夏も既に何件か車内に放置された子供たちが熱中症で亡くなっている。その親は冷房の効いたホールで数時間もパチンコに熱中していたというのだ。
こうすればどうなるという想像力の欠如と幼子への思いやりの欠如、それに輪をかけたジコチュー。この国の病理そのものだ。
役人もマニュアル通りに動いてその先へ進もうとしない。それで任務が完了していたというのなら、まさに役人天国だ。政治家も不完全な法律を作って、児童虐待に心を痛めないのなら任務怠慢の誹りを免れないだろう。偉大なるジコチューは子供のまま親になった連中だけでなく、政局と人気取りに明け暮れる政治家たちも同じ範疇に属するだろう。
痛ましい被害者がこれ以上でないことを切に願う。