菅氏は「奇兵隊」の顛末をご存じだろうか。

 元治元年六月に高杉晋作によって創設された奇兵隊は武士からなる正規軍の限界から、高杉晋作が藩主毛利敬親の許しを得て馬関(今の下関)で募兵を行った。奇兵隊とは藩正規軍に対して身分の異なる庶民、つまり奇なる兵隊という意味で高杉が命名した。当初は高杉晋作の良き理解者で支援者の豪商白石正一郎の屋敷に兵を宿泊させたが百人を超えると手狭になり、馬関郊外の吉田に屯所を設けて移駐した。(ちなみに高杉晋作を支援した白石正一郎も財力を使い果たし、維新後に没落していたが、伊藤博文などの尽力により赤間神宮の宮司となり居職を保障された)


 その年の五月十日から始まった馬関戦争(その年三月の上下加茂神社御幸に随行した将軍による攘夷の宣誓を実行しただけと長州藩は主張するも、攘夷の宣誓には専守防衛の条項があった)で武士からなる正規軍が仏国戦艦の砲撃と50人の陸戦隊により完膚なきまでに叩きのめされた。正規軍千名からなる撰鋒隊は武家の学問から砲弾や銃弾で戦死するのは犬死だとする考えが体に染みついていた。犬死や不名誉な戦士では家名断絶の恐れがあった。つまり藩の勝利よりも各自の家名を重んじたため、砲撃が始まると武士たちは蜘蛛の子を散らすように桟を乱して逃走したのだ。現在の国家官僚が国家の財政破綻よりも各自の所属する省庁益の方を優先するのと似てはいないだろうか。


 


 高杉晋作は萩郊外松本村弘法谷に頭を丸めて「東行」し号して隠棲していたが、藩主毛利敬親の命により山口の政事堂へ召し出され、そこで藩主の馬関の戦況への対策を下問され、それに答えて奇兵隊の創設を提案した。失うべき家名のない百姓や町人の次・三男は命を賭して戦うと思った高杉の洞察力と英知のなせる業だった。


 武器としては俄作りの軍隊に刀槍の扱いは無理と判断し、先込めだがゲベール銃を標準装備とした。操練の教授には松下村塾の弟分の山県小助(後の山県有朋)と伊保庄克己堂で教授をしていた白井小助を任命し、事務方には松下村塾の英才入江九一を配した。そして自分は開闢総督として君臨したが、高杉晋作の下に二百近い兵を預けておくのを危険視する意見があって、その年の十月には山口へ召し出されている。


 


 紆余曲折の後、高杉は元治元年十二月十五日夜功山寺に挙兵し、明けて慶応元年一月六日から守旧派(高杉晋作は俗論派と呼んだ)の牛耳る萩政府と軍事衝突し、太田・絵堂で藩正規軍と奇兵隊を主力とする諸隊(奇兵隊以降、藩内各地に奇兵隊を模した庶民からなる軍が結成されまとめて「諸隊」と称された)三百程度で武士からなる正規軍千と三度戦い三度とも快勝した。しかし高杉晋作は総大将として馬関にいた。太田・絵堂で戦った大将は山県狂介(後の山県有朋)だった。高杉晋作は呼べば届くほどに近い馬関海峡の対岸大里に滞陣している幕府軍(第一次征長軍)に備えて兵二百とともに馬関にいた。


 征長軍の総参謀に就いていた薩摩の西郷吉之助の判断により幕府軍が撤退すると、高杉晋作は兵を率いて絵堂へ進軍し山県率いる軍と合流して藩正規軍と決戦を挑み大勝した。


 


 慶応二年六月八日から始まった第二次征長戦では二千トン級の主力艦からなる幕府艦隊が周防大島を襲うと高杉晋作はその年三月にグラバーから奪うようにして購入したわずか94トンの軍艦「オテントサマ号」で奇襲攻撃をかけることにした。


 周防大島久賀沖に停泊している幕府艦隊十数隻のなかへ突撃を夜間敢行し、オテントサマ号に装備されていた最新式のアームストロング砲三門を放ちながらくるくると水澄ましのように幕府艦の間を走り回った。蒸気機関は一度火を落とすと再び稼働するまで時間がかかる。幕府艦隊が煙突から煙を吐き出せすと、高杉はさっさと上関へ引き上げた。


 第二次征長戦では高杉は陸戦を戦っていない。すでに労咳が進行し、オテントサマ号で出撃した当時には血を吐いていたという。軍事物資を船で届けに来た坂本竜馬と小倉の幕府軍攻撃に長州藩の軍艦で出撃したりした。奇兵隊は専ら山県が率いて小倉口の戦いに参加している。


 第二次征長戦争は八月一日に小倉城炎上により終息した。十五万の幕府軍に対してわずかに一万の長州藩が勝利したのは偏に火力の差だった。大本営方式を採用して各地の前線を中央で指揮した大村益次郎(旧名、村田蔵六)の勝利だったが、高杉の症状は終戦と同時に急速に悪化し、九月には一人で立てないほどになっていた。奇兵隊士たちは労咳に鯉の生血が利くと聞いて大鯉を掴まえて差し入れしたりした。


 


 その翌年、慶応三年四月十四日、高杉晋作は馬関の山麓にある庵で27年の生涯を閉じた。


 奇兵隊は戊辰の役に転戦し、長岡藩の河井継之介には苦戦し朝日山の攻防では大勢の参謀や兵を失った。


 役の終息により奇兵隊をはじめ諸隊は郷里に帰山したが、藩の対応は冷たかった。すでに廃藩置県が中央政府で議論され、各藩の兵を武装解除すべきとの議論もあった。つまり各藩が軍備を擁すると中央政府にいつ反乱を企てるか分からないからだ。戦国時代を制した豊臣秀吉が刀狩をしたのと事情は似ている。


 奇兵隊をはじめ諸隊の幹部は中央政府に召し出され、郷里には下士官と兵ばかりが取り残された。


 やがて不満は高まり明治二年十一月、武装解除に従わない奇兵隊や諸隊の兵が山口郊外の柳井田関に続々と集結し始めた。その兵二千を数えるまでになり、慌てた藩政府は説得を試みる一方で中央政府に急を知らせた。


 急遽山口へ帰った木戸孝允や井上馨らは藩兵を率いて出陣し、柳井田関門付近で明治三年二月八日戦端が開かれ激戦の末反乱軍は鎮圧された。


 


 奇兵隊は我が国で初の国民軍といわれているが、その実態は以上の通りだ。高杉が生きていれば奇兵隊をはじめ諸隊の兵を反乱軍にはさせなかっただろうが、戊辰の役で手柄を立てた将は中央政府で立身出世し、草莽の兵は彼らの眼中にはなかったようだ。


 さてさて、菅奇兵隊隊長は兵の一人一人にまで気配りする人物か、それとも自分の立身出世のために兵を使い捨てる人物なのか、これからの菅氏の手腕が問われるだろう。



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