民意とは何か。

 世論調査万能主義とでもいうべきなのだろうか。脱・小沢だとかによって民主党の支持率がハネ上がったという。実態のない期待値だけで世論調査が上がるとは思えないから、おそらく支持率が上昇したのは新政権が政治的な場から小沢氏を徹底的に排除したご褒美なのだろう。


 しかし国民は小沢氏が幹事長を辞任し政権の中枢から去ったことにご褒美を与えるほど、小沢氏の一挙手一投足を注視していたのだろうか。小沢氏がどのような政治信念を抱いているのか熟知していて、その政治的なるものに反発していたのだろうか。いや、そうではないだろう。漠然とした「小沢」なるイメージに意味のない嫌悪感を抱いていただけではないだろうか。


 


 議論ばかりして現実政治に政党として立ち向かう気概にも戦略にも欠けていた民主党を政権を狙う闘う集団に変えてまともな政党にしたのは間違いなく小沢氏だ。小沢代表の下で前回の参議院選挙で安倍晋三氏率いる自民党に勝利し、代表の座は下りたが去年の夏に麻生氏の率いる自民党に勝利して政権に就いたのは小沢氏の手腕だった。


 その小沢氏が政権の中枢に座って民主党をとり仕切るのに何の違和感があるだろうか。むしろ小沢氏の手柄によって政権政党となったにもかかわらず、とうの小沢氏を排除してそれまで碌な働きもしなかった、ただ小沢氏を党内で批判していた連中が要職に就いた菅新政権こそが変な政権だと言わざるを得ない。


 


 小沢氏には様々な形容詞が冠せられた。剛腕、こわもて、独裁、不透明、金権、等々。それらの反語のように今回政権中枢に就いた人たちはクリーン、透明、を合言葉のように口にする。


 しかし物事には必ず表裏がある。「クリーン」の裏は泥をかぶらない。「透明」の裏は責任を持たない、ということだ。「剛腕」の反対は非力だろうし、「こわもて」の反対は役者顔だろうし、一身に結果責任がのしかかる「独裁」の反対は無責任だろう。


 反・小沢氏的な事柄を挙げていくと新政権の性格が見えてくる。つまり仲良しクラブだということだろう。枝野氏はさっそく「みんなで力を併せ、和を持って行こう」と発言したようだ。まるでホームルームで優等生が呼びかけているようだ。権謀術数の渦巻く政界でクリーンで透明感ある党運営では碌な仕事は何もできないだろう。


 


 この国の政治はいつからマスコミの作り出す「民意」至上主義になってしまったのだろうか。小沢氏に冠せられた様々な形容詞は国民が実感として体験したものではない。すべてはマスコミによって作られた虚像だ。実際に彼と親交のある人たちの証言を読むと良く分かるだろう。政界で彼と袂を別った人たちの証言は信用しないことだ。彼らは自分が有利な立場に立とうとして(実際小沢氏と行動を異にした人たちが自民党に復帰してしかるべきポストに就いたことを見るといかにプラズマティックに行動したか良く分かるだろう)小沢氏を悪し様に言うだけだ。黄門様もその類だ。


 


 支持率上昇に民主党は沸き返っているようだが、参議院議員一期目の若い女性が「事業仕訳」で脚光を浴びただけで行政改革担当大臣が務まるとは思えない。政調を復活したからには自民党時代のように族議員も復権してあらゆる政策に嘴を挟むようになるだろう。省庁の利害を代弁する年上のキャリアのある先輩議員をある時は論理で、ある時は恫喝で退けて、若い女性大臣が「行政改革」を推進できるだろうか。自民党時代に政調が機能した弊害としてこの狭い国土の各地にチマチマとした空港が百近くも出来た。結果として世界のハブ空港建設といった国家戦略もなく、政治家は出身地域への利益誘導に狂奔したといわれても仕方ないだろう。しかし、その方が官僚にとって慶賀の至りなのだ。様様な天下りポストが全国にゴマンとできたわけだから。


 クリーンで透明の掛け声の下、若い幹事長が党内の様々な意見や利害を取り纏めて選挙や資金配分を仕切れるのだろうか。小沢氏を排除した政党が再びかつての議論は活発だが政権担当能力に疑問符のつく民主党に逆戻りしないか心配だ。国民はいつまでマスコミ主導の民意至上主義に付き合わされ、振り回されるのだろうか。いま少し国民は新聞やテレビ報道と距離を置き、斜に構えて腕組みをし批判的な視線で眺める必要があると思うのだが。



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