不起訴は当然。法の場に市民感情は危険だ。

 たとえば暗黙の事実として殺害された被害者が一人の場合は死刑を回避する、という刑の適用基準がある。その場合でも同時に暴行・強姦だとか、強盗・放火だとか累犯があれば死刑の適用も考えられる。そこの判断に市民を登場させたのが裁判員制度だ。ただ殺人罪や累犯罪などの認定が法と証拠に基づかなければならないのはいうまでもないことだ。


 つまり市民が登場するのは法と証拠によりその人の罪が問われると思われる場合であって、法と証拠の認定が疑わしい場合でも市民感情で認定してしまえ、というのは法の精神を踏みにじることだ。


 検察審査会が設けられた背景は検察が身内の犯罪に対して公訴権の行使をしなかった場合のお目付け役として裁判所に市民からなる審査会を設置されている。小沢氏の事件の審査に際して審査助言者に元判事の弁護士を選任するとはなにおか況やだ。検察と裁判所の特別な関係を白日の下に晒すこと以外の何ものでもないだろう。


 


 未だにテレビのバラエティ番組で「秘書が三人も起訴されているのに、小沢氏が起訴されないのは釈然としない」なぞと司会者が呟いている。この司会者は故意に指摘すべき事実を捻じ曲げて発言しているとしか思えない。逮捕された三人は秘書の肩書で逮捕・起訴されたのではない。政治資金収支報告書に記載した「会計責任者」として記載事実に関して違法性があるのではないかと罪を問われているのだ。


 何度もブログに書いたことだが、収支報告書では会計責任者の署名捺印しか求めていない。政治家が確かに収支報告書に目を通し内容を承知したとする署名捺印欄はないのだ。それがケシカランと目くじら立てても政治家の署名が求められていない以上は「知らない」といえば、知っているとする証拠がない限り政治家の関与は認められないし罪に問えない。さらにいえば三人の秘書も起訴されはしたが公判で争う余地は十分にある。推定無罪は基本的人権ですべての国民に認められていて、秘書三人も現在は無罪の国民の一人なのだということを忘れないことだ。


 たとえばテレビ司会者が原付に乗って250ccバイクの友人を時速50キロで追走していたら、テレビ司会者だけが速度違反で停止させられる。「俺だけ停めるンはおかしいンちゃうか」と司会者が言っても無駄だ。


 


 法の専門家にして小沢氏立件に異常な執念を燃やす東京地検特捜部てすら起訴できなかった事件を市民感情が立件しては「法と証拠に基づく以外何者も起訴されない」とする法の精神が崩れることになる。市民感情が法に優先すればもはや法治国家とはいえない。今回の小沢氏の場合では「不起訴」と検察が判断する程度の問題でマスコミが何度一面の大見出しで報じたことだろうか。それにより世間に「小沢氏=巨悪」とのイメージが定着してしまった。何ら根拠のない巨悪イメージを報じたことに関してマスコミは小沢氏に謝罪記事を掲載しないばかりか、容疑不十分で不起訴はシロではない、なぞと法学者が聞けば驚きの余りひっくり返るような発言を平気でしている。小沢氏が名誉棄損で訴えれば彼らは何と言って弁明するのだろうか。


 


 この国が「市民感情」という超法規を持ち出してテレビなどでマスコミが煽れば政治家が失脚させられることになれば、マスコミは政治家に対して失脚カードを手にすることになる。なんとも空恐ろしいことだ。民主主義で選挙によらない政治家の失脚が扇情的なマスコミ報道で可能になれば大本営と組んで何をしでかすか分かったものではない。


 国民も市民感情なぞと持ち上げられていい気にならないことだ。繰り返し言うが、法と証拠に基づいて人は裁かれるべきものだ。たとえ起訴段階だけだとしても「市民感情」でされてはかなわない。一般の会社員が何の事件であれ起訴されれば多くの場合職を失う事態に陥るだろう。政治資金規正法に瑕疵があろうと法の厳正な適用を望むと同時に、問題の残る法律は改正して国民に分かりやすい体系にすべきであって、断じて「市民感情」で人を裁かないことだ。



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