時代小説…「冬の風鈴」その3

 陸前屋を後にすると、佐吉は黒江町へと向かった。


 聞き込んだ限りでは作次と安蔵殺しの下手人は怪の物だ。行く方知れずの猪吉もおそらく生きちゃいまいが、それも怪の物の仕業に違いない。夜の帳が下りるのを待って確かめるしかないが、そのことをひとまず嘉平親分の耳に入れておくのも下っ引の仕事というものだ。しかし、さしあたって急ぎの捕物もなく仙台堀を張り込む必要もない。折り良く道の途中だからと、佐吉は親方の許へ顔だけでも出してご機嫌を伺っておこうと足を向けた。


 北川町の細工場に顔を出すと、神棚を背にした平治が口を尖らせて細工台に顔を寄せて槌を振っていた。廊下からその様を見て急に気が重くなった。奥の庭に面した細工場には蔀窓から冬の日差しが差込み、親方も含めて三人の男たちが黙々と細工に打ち込んでいた。


 ためらった佐吉の気配に、平治はつと顔を上げた。見たこともない怒りの表情だった。「何処をほっつき歩いてる」との目で佐吉を一睨みした。七草粥も済み世間は正月気分も抜けたというのに、との言葉まで聞こえてくるようだった。


「嘉平親分に言われちまって……」


 問われてもいない言い訳をして、佐吉は早々に踵を返しそうた。すると、平治が「ちょいと待ちねえ」と声を掛けた。


「お前の細工台は埃を被ったままだぜ。いったいぜんたい、いつになったら日本橋の喜久櫛から頼まれた銀煙管は仕上がるんだ。良い加減にしろよ」


 平治の濁声が佐吉の背に浴びせられた。


 はじけたように振り返ると、佐吉は廊下に蹲った。今度ばかりは様子が違うようだ。親方は本気で怒ったのかもしれなかった。


「仙台堀は今川河岸で人が二人も殺されちまって、どうでも手が足りないからと、」


 と言い訳をしたが、平治親方のいつにもない怒気を含んだ眼差しに、佐吉は細工台の前に座った。


 こうなれば夕刻までに銀煙管を仕上げるしかない、と覚悟を決めた。今川町仙台堀の怪の物は夜までは出てきはしない。早々と嘉平親分の耳に入れたところで親分が何をするというのでもない。細工台を覆っていた手拭いを取り払うと、細工途中の銀煙管が鈍い光を放っていた。


 元来が好きで入った細工職の道だ。中食を摂るのも忘れて、佐吉は槌を小刻みに動かし、微細な龍の描写を丹念に彫り込んでいった。


 下絵も何も描かないで、佐吉は頭に浮かんだ図柄をいきなり彫り刻む。そうしないと伸びやかな彫物にならず、たとえ丁寧な仕事をやり遂げても仕上がり具合に何処か満足できなかった。きれいだけど死んでいる、と佐吉の目には見えた。


 八つ過ぎにおいねが廊下から手招きした。おいねは親方の一人娘で歳は十九、気が強い他はごく普通の町娘だ。北川小町と取り立てていうほどの器量でもなく、目立つのは大柄な上背だけで目鼻立ちは十人並みだった。


「佐吉の腹に何か入れさせろって、親方が」


 立って行った佐吉の耳元でおいねが囁いた。


 つい先刻、親方は仕事を切り上げて得意先廻りへ出掛けたが、その折りに内所でおいねに声を掛けて行ったのだろう。


 この時代、男たちが色好みの相手に求めたのは小柄で小肥りの女だ。家鴨といって女がふくよかな尻を振って歩く様に男はゾクッとする色気を感じた。面立ちも下膨れで色白を極上とした。しかし、おいねはそれらのどれにも当てはまらなかった。瓜実顔にすらりとした体躯をし、職人の娘らしく健康そうな肌艶をしていた。男の身長が五尺と一、二寸が普通の時代に、おいねは五尺二寸近くあった。いつもは背を屈めて身を小さくしているが、五尺五寸の佐吉と並んだ時にだけ、おいねはしゃんと背筋を伸ばした。


「ありがてえ。考えてみると、おいらは朝から何も腹に入れてなかったぜ」


 おいねの後に続きながら、佐吉は軽口を叩いた。


 常々、おいねも佐吉が下っ引のまねごとをするのを快く思っていなかった。細工仕事にだけ打ち込んで欲しいと口にこそ出さないが、おいねがそう思っているのは佐吉にも分かっていた。


 先に立って、おいねは六畳の板の間へ入った。内弟子の頃、そこで親方や弟子たちと膳を囲んだものだった。


「急なことだから何もないけど。菜の物と沢庵だけだよ」


 お櫃の傍に座り、おいねは両手を出した。


 箱膳に伏せてある茶碗を取り上げ、佐吉は頭を下げておいねに差し出した。


 十五で平治親方の許へ弟子入りした折り、おいねはまだ九つの子供だった。それから足掛け五年、佐吉は内弟子として平治の家の二階に寝起きした。佐吉が一人前の細工職となった頃にはおいねも十四、大抵の町娘が男を知る年頃になっていた。


 おいねと佐吉の間には何もない。清廉潔白の間柄だ。手を握ったことすらないが、おいねにはそのことがつまらなかった。


「ねえ、界隈の金棒引きに聞いたんだけど、男の物を食われちまってたんだって?」


 不意においねが聞いた。


 佐吉は奥歯で噛んでいた沢庵を呑み込み、「えっ」とおいねの顔を見た。


「殺された夜鷹も女の物を食われちまっていたんだって? その化け物はよほど男と女のまぐわいを怨んでいるんじゃないのかい」


 年頃の娘の口から「まぐわい」と出たことに佐吉は驚いて目を剥いた。しかし、おいねは少しも頓着していなかった。この界隈の娘は辰巳芸者を真似て普段は男言葉を使っているほどだ。それよりも、とおいねは身を乗り出した。


「佐吉は仏を改めたんだろう、自身番で」


 そう言って、おいねは佐吉の顔を見た。


「確かに、喰われちまっていたけど。まさか怪の物がまぐわいを怨むって、そういうことがあるのかな」


 佐吉は飯を掻き込みながら考えた。


 怪の物にあらず人そのものなり、と月海は言った。怪の物の存在そのものが信じられないが、人がああした残忍なことをするとも考えられない。到底、尋常な物差しで測れるような事件ではない。佐吉の眉根が寄った。


「願人坊主が陸前屋に長逗留して、陸前屋の先祖の霊を鎮めているんだ。新妻に不義を働かれ裏切られた無念さに気が狂い、自害して果てた先祖の若い武士の怨霊が祟ってる、とその坊主は言うんだ。おいらはちょいと信じるわけにはゆかないが」


 そう言って、佐吉は沢庵を一切れ口の中へ放り込んだ。


「男の怨霊だっていうのがちいっと戴けないね、湿っぽくって。元来、怨霊って女の独壇場だろう。鍋島藩の化け猫騒動や牡丹灯篭などは、女の怨念がそうなったのだろう?」


 おいねは遠慮なく佐吉に聞いてきた。


「しかし、怨念だけがこの世に残って仙台堀で人を喰い殺すというのか」


 果たしてそうだろうか、と佐吉は箸を止めておいねを見た。


 埒もない、と一笑に付すことはたやすい。しかし、それで一連の変事の片が付くのか、整然と理を申し立てられるのか。自分の発した問い掛けに、佐吉は言葉を喪った。


「下っ引になっちまうのかい佐吉は。それとも細工職としてやってくのかい」


 長い睫を伏せて、おいねは佐吉に聞いた。


 普段は伝法な物言いをする娘が時として女の姿を見せる。おいねに女を感じて佐吉は気詰まりになった。女に囲まれて育った佐吉は大抵のことでは女を意識しないが、おいねの変わり身だけには弱かった。


「おいらは細工職だ。下っ引稼業は嘉平親分に頼まれて仕方なく、」


 やってるだけだと啖呵を切りたいところだが、次第に声が細くなった。


 絡め取られた羽虫のように、佐吉は言葉が継げなかった。


「親分から碌な手当ても貰っちゃいないのに、危ないことに首を突っ込むんじゃないよ」


 おいねはそう言って、怒ったような眼差しで佐吉を睨んだ。


 そそくさと遅い中食をおいねの給仕で済ますと、細工場へ戻って銀煙管を仕上げに掛かった。夕暮れまでに彫り終えてしまえば、後の磨きは新入りの留蔵に頼めば良い。一心に鑿の尻を槌で小刻みに叩いた。


 火ともし頃に、佐吉は仕事を終えた。


 細工職として心地よい疲れに浸る間もなく、佐吉は北川町を後にした。


 親方は何も言わなかったが、出しなにおいねが「気を付けておくれよ」と声を掛けた。腰高油障子の桟に手を掛けたまま佐吉は振り返って「心配してくれんのか」と声を返し、頬に笑みを浮かべて腰高油障子を引き開けた。「しょってるんじゃねえや」と巻き舌で言い返したが、佐吉が腰高油障子を閉じて足音が遠ざかると、おいねは式台にへたり込むように座って、佐吉の消えた油障子をいつまでも見詰めていた。


 


 嘉平は黒江町の家にいた。路地を入った角の行灯建て、元は小体な下駄屋だった家だ。老中水野忠邦が無粋な奢侈禁止令を乱発し、料理茶屋ばかりかとうとう下駄屋までいけなくなった。下駄屋が夜逃げした後に、空き家では何かと不用心だからと家主に理屈を付けて嘉平が入り込んだ。ゆくゆくは適当な女でも見つけて所帯を持ち、小商いでもさせようとの魂胆から目を付けたに違いないが、家主にいやは言えなかった。


 心張り棒を支ってない腰高油障子を開けると、土間の奥の座敷に綿入れを羽織った嘉平が櫓炬燵に突っ伏していた。風邪っ気だといったのは嘘だったようだ。宵の口から赤ら顔に酒気を帯びてうたた寝していた。


「乞食坊主の言うことを真に受けろっていうのかえ」


 陸前屋で聞いた月海の話を報告すると、嘉平は吐き捨てるように佐吉を叱った。


「それで、今夜仙台堀の河岸で化け物が出るのを張り込むってのかい? おいらはよすぜ。化け物話に踊らされて嘉平親分が出張ったとなりゃ、いい世間の笑い種だぜ」


 そう言って首を傾げて、


「ところで、下手人探しはどうなってるんだ?」


 と、岡っ引の顔で聞いた。


 事件に関して一通り語り終え、陸前屋の因縁噺から月海のことまで話した。漠然とでも怪奇めいた話の輪郭は分かってもらえたつもりだったが、また一から噛んで含めるように説かなければならないのか、と佐吉は天を仰いだ。


 怪の物をお縄にすることは出来ない相談だ。しかし、人の命が奪われた事件の理を明確にしておく必要はある。


「今夜、おいらだけでも今川河岸で仙台堀を張り込んでみます」


 佐吉は仕方なくそう言った。


 は「うむ」と言ったきり腕組みをして瞑目した。


 南町奉行所同心荒垣伝之助から十手を預かったのは十六年前。そこそこ岡っ引として暮らしが立つようになったのは佐吉を下っ引に使いだしてからだ。その前に使ってた下っ引はどいつも碌に御用を果たさない役立たずのくせに、強請やたかりを働く破落戸まがいの者ばかりだった。当然のように嘉平親分の界隈での評判も悪く、袖の下の実入りもなかった。ここで佐吉を失う羽目になったら元の木阿弥、のんびりと炬燵で暖まっていられなくなる。仕方がないか、と嘉平は目を開けた。


「お前がそこまで言うんなら、おいらも出張ってみよう。しかし、乞食坊主が口から出任せを言ってたとなりゃあ、金輪際許すもんじゃないぜ。世間を惑わす罪人として月海をしょっ引いてやるからそう思え」


 何を意気込んでいるのか、嘉平は目を剥き佐吉を相手に大見えを切って見せた。


 それを佐吉は男らしさと受け止めたが、実は嘉平の気弱さに他ならない。嘉平は怖かったのだ。怪の物という、何処か高を括っている世間の埒外の存在に、問答無用の恐怖を抱いた。しかし、まだ若い佐吉には嘉平の心の中までは分からない。


「へい、親分が直々にお出ましともなれば、怪の物もものの数ではありませんや」


 佐吉が素直に喜びを表すと、嘉平は口をへの字に曲げて顔を歪めて目を閉じた。


 のろのろと嘉平は身支度をして、最期に神棚の十手を手に取って懐へ差した。


 紺股引に尻端折り、綿入れの羽織を着込んで土間の雪駄に足の親指を通した。問われるまでもなく怪の物は怖いが、やっと手に入れたこの世の心地よさを失うのはもっと怖かった。膝小僧が笑うのは寒さのせいだと自分に言い聞かせて、嘉平は佐吉に続いて敷居をまたいだ。


 二人が向かったのは仙台堀河岸万年町のお多福だった。


 五町ばかりの道のりを、二人は無言のまま足を運んだ。裏路地から裏路地へと、細い路地を拾って歩いた。空で木枯らしが唸り、足下を掬うように氷のような風がまとわりついた。主従の歩く裏路地には大通りにはない暮らしの匂いがあった。恰も今生の名残を惜しむように、嘉平は垣間見える裏長屋の情景に目を遣った。


 


 暮れ六つ過ぎ、嘉平と佐吉はお多福の切り落としの座敷にいた。


 さすがに昨夜の今夜で、客は二人のほかに誰もいなかった。常連客が何人も殺されてお島も気味が悪いのか、いつもの軽口は影をひそめていた。


「お通夜じゃねえや」


 と悪態をついたが、そう言った嘉平の顔も青ざめていた。


 途切れがちになる話を酒が埋めて、盆に並んだ徳利の数だけが増えた。


「怪の物ってのに、おいらは馴染みがねえ。やはり止しにするかな」


 ぼそりと嘉平が呟いた。


 何を逡巡しているのか、と佐吉は目くじらを立てた。いつもの親分らしくもない。岡っ引は火消人足にも負けない男伊達のはずだ。それがどうしたことだろうか。


「親分、なんならこれからおいらだけで河岸へ行こうと思いますが」


 心にもなく、佐吉は強がりを言った。


 こんな場合、嘉平に懇願するよりも突き放した方が良い。そう言われると男の一分が立たなくなって、親分の無鉄砲な男気が目覚めるのだ。


「何も吉だけで行け、とは言ってないぜ。十手を預かる者として事件をうやむやには出来ねえ、それがお役目ってものだ」


そう言うと弥蔵に構えて、ぐっと胸を反らせて見せた。


 嘉平が同心荒垣伝之助から十手を預かったのは自分のためだ。まかり間違っても世のため人のためではなかったはずだ。しかし、岡っ引であることに変わりなく、こうした場合は命を的に働かなければならない羽目になる。そう自分自身に言い聞かせてやっとのことで腹を据えると、嘉平は自分の腹が減っているのを思い出した。


「女将、何か腹の足しになるものを頼む、二人前だ」


 嘉平が吠えるように言うと、板場の仕切りの短暖簾に白い下膨れの顔を出したお島が「あいよ」と応えた。


 


 一刻余りお多福で時を過ごすと、二人はいよいよ今川町の仙台堀へ向かった。夕刻には激しかった風もおさまり、雲の切れ間に十万坪の彼方から尖った月が昇りはじめていた。


 素足に雪駄では、寒さで足が錐で突かれるように痛んだ。二人とも綿のように白い息を吐きながら河岸道をゆっくりと下った。


 さすがに今夜は出ていないだろう、と思った夜鷹が枯れ枝を垂らした柳の下に筵を小脇に立っていた。このすぐ下手は佐賀町、米蔵の立ち並ぶ大通だ。蔵番の男たちが寒さに震えながら膝を抱えて眠る前に、暖かく柔らかい女の肌を求めてやって来るのだろう。岡場所へ行くには暇も銭もないが、夜鷹なら鉄砲二十四文で済ますことが出来る。どんなことがあろうとも、この世にいるのは男と女だけだ。


「どうだ、商売は」


 と、先に立つ嘉平が声をかけた。


 暗がりの中で「ヒィッ」と驚きの声を上げ、夜鷹が柳の陰から姿をあらわした。


「親分、おどかしっこなしですよ」


 馴れ馴れしく声を返して、手拭いの端を口に銜えたまま「駄目さ」と捨て鉢に言った。


「仏が棹ばかりかふぐりまで怪の物に抜かれたと広まっちゃ、男たちは怖じ気をふって誰もこの河岸に寄り付きゃしない、腰抜けばかりさ」


 声だけでは分からないが、たぶん女は若くない。張りをなくした濁声だった。


 佐吉が暗がりに目を凝らすと、河岸に並ぶ柳の木陰のそれぞれに夜鷹の姿があった。


 女の生きる執念の凄まじさを見たような気がした。


「ナニ、おいらが退治してくれるさ」


 嘉平は大口を叩き、ゆっくりと今川町を通り過ぎた。


 どこまで行くのか、と思う間に上之橋の袂まで来てしまった。仙台堀を境に上之橋の上手を上佐賀、下手を中佐賀と呼んでいた。二人が立った場所は佐賀町仙台河岸通りだった。 大川に潮が逆流しているのか、ぷんと磯の匂いが鼻についた。


 嘉平は太鼓橋の真ん中に立って、仙台堀に視線を走らせた。佐吉も橋のやや下手に立って今川町の土手下に目を凝らした。江戸の夜は墨を流したように暗い。時節が良くなれば迎え舟送り舟で仙台堀は夜中まで賑わう。仲町の料理茶屋梅本までここらの河岸から芸者や女郎とともに舟で乗り付けるのが粋とされていた。


 しかし、冬の最中に舟遊びする酔狂者はいない。後一月もすれば櫓が河岸に並び立ち、四つ手網で白魚を掬う漁が始まる。一網で一ちょぼ(二十匹)ぐらいはたやすいことだが、今はその時期でもなかった。


 橋の上で嘉平がもぞもぞと下帯をまさぐりだした。お多福で呑んだ酒のせいで尿意を催したのか、佐吉は気になって嘉平を見上げた。だがその時、今川町の土手で絹を裂く女の悲鳴が上がった。


 下帯に右手を差込んだまま、「野郎、出やがったか」と嘉平が短く叫んだ。


 佐吉も素早く目を転じた。すると、仙台堀の中ほどに蛍火のような青白い明かりがぽっと浮いていた。橋板を踏み鳴らして嘉平が唸り声を上げて飛ぶように駆け、佐吉の傍を通り過ぎた。その後に付いて佐吉も駆け出した。


 


 風鈴が鳴っている。


 チリンチリンと風鈴が鳴っているかと聞こえたが、それはギヤマンの音ではなかった。鏧を打っているのだ。月海だろうか、と佐吉は思った。


 今川町の土手へ近づくにつれて、蛍火はいよいよ大きくなった。


 嘉平は懐の十手を引き抜き、蛍火目掛けて「御用だ」と叫んだ。しかし、それを嘲笑うかのように蛍火は大きくなり、やがて畳二畳もの大きな顔となった。般若よりも恐ろしい、獣のような切れ上がった目と耳まで裂けた口をしていた。


 突然、蛍火が赤々と燃え上がった。すると、嘉平の体が宙に浮き足元を掬われたように土手下へ転がり落ちた。同時に、仙台堀へ引きずり込む強い力が佐吉の体を鷲掴みにして宙に浮かせた。大きく開いたおぞましい口が待ち受ける土手下へと佐吉も転がり落ちた。喰われる、と観念するしかなかった。土手下には杭に体を荒縄で縛り付けた月海が瞑目して鏧を打ち、一心に経を唱えていた。土手下の砂地をずるずると引き摺られるのに抗らって、佐吉は枯れた葦を両手で掴んだ。嘉平は佐吉の脚にすがり付き、仙台堀へ引きずり込まれそうな力に歯を食いしばって耐えた。


 佐吉は両足にしがみついた嘉平の分まで頑張らなければならない。赤い閃光が河岸を昼間のように染めるたび、仙台堀へ引きずり込む凄まじい力が加わった。月海は懸命に経を唱えているが、いっこうに効き目はなかった。半摺りのように鏧を乱打し朗々と読経しても、杭に縛り付けてある月海の体さえも鷲掴みにされて宙に浮いていた。荒縄が切れでもすると怪の物の餌食になるのは火を見るよりも明らかだった。


 赤い閃光が二度、三度と光り、いよいよ引きずり込む力が強くなった。枯れ葦にしがみついている佐吉の腕は肩から抜けそうになり、これまでかと観念した。その折、河岸で叫ぶ甲高い女の声が聞こえた。


 聞き覚えのある声はおいねのものだった。


「死んだ者がこの世に当たり散らすのはおよし、男のくせに女々しいじゃないか。あんただって両親のまぐわいの末に、おっかさんのここから生まれたんだ」


 そう言うなり、おいねは両足を広げて河岸に立ち、着物の前を尻まではだけた。そればかりか、赤い腰巻きすらも両手で大きく開いて見せた。


「女房の不義密通とこの世の男と女のまぐわいと、一緒にするなんざ料簡違いだ。金銀屏風に高砂で二世を契ったところで、三行半でケリのつく夫婦も五万といりゃあ、その反対にたとえ夜鷹に身をやつしても心の奥底に純な思いを抱いてる女だっているんだ。わっちの佐吉をどうするつもりだね、罰当たりめ。妙な情念をこの世にいつまでも残すんじゃないよ。わっちの純な観音様を拝んだら、とっととあの世へ成仏しな」


 そう言うと、おいねは河岸で仁王立ちになった。


 古来より、赤には魔除けの力があるといわれている。中国では魔物が家に入り込むのを防ぐために赤い紙を入り小口に貼る習わしがある。


 おいねが怪の物へ向かって啖呵を切って下腹部を晒すと、赤化していた光りはふたたび蛍火へと逆戻りし、仙台堀へ引きずり込む力も弱まった。


 怪の物は人そのものなりと月海は言った。女の真心に絶望して自害した寺本兵馬の怨霊だとすると、おいねの自らの命を度外視した真心に撃たれたのだろうか。


 怪の物の威力が弱くなると、柳の木陰で成り行きに息を潜めていた夜鷹たちも下駄を鳴らしておいねの傍へ駆け寄った。


「怪の物め、誰だって女のここを通って生まれて来るのさ」


 と口々に言って着物の裾を捲った。


「抱いた抱かれたで、女を軽く見るんじゃないよ。女の真心も知らねえくせに」


「怨霊なら、さっさとあの世へ行っちまいな。この世にゃこの世の暮らしがあるんだ」


「さあ、どうだ。この世の名残にたっぷりとわっちの観音様を拝ましてやるぜ」


 おいねも含めて六人もの女が今川町の河岸に仁王立ちになって、仙台堀の真冬の川風に下半身を晒した。蛍火はいよいよ小さくなり、最期に「ギャッ」と叫び声を残して消えた。


 


 凄まじかった魔力は嘘のように消えた。


 辺りは平穏な冬の仙台堀の夜に戻っていた。


 佐吉は顔を上げて土手を見上げた。目の上で六人の女が着物の前をはだけて立っている。


 しかし、蛍火が消えて夜の闇が濃いため、翻る着物の他には何も見えなかった。


 佐吉の脚にすがり付いていた嘉平もやっと手を放した。が、すぐに立ち上がろうともせずに、土手下の枯れ葦に寝そべって荒い息遣いをしていた。


 月海は荒縄を解き、しっかりとした足取りで佐吉へ近寄った。


「拙僧の法力よりもあの女たちの女陰の力が遥かに優るとは」


 と苦笑して、佐吉の手を引いて起こした。


 退散させたのは河岸道に並んだ女陰だけの力ではないだろう。


 怨霊とはいえ、何処か女々しさを感じさせる怪の物だった。何かのせいにしてこの世に祟り続けるのは、武士として余りに潔くない。おいねのきっぱりとした女の真心に撃たれて、怨霊がこの世を立ち去ったのか。佐吉と月海は互いに黙ったまま目を見合って、そうした思いを通じ合った。


 河岸から土手を下りて来る下駄の音がした。おいねが土手を下りると、残りの女たちも転がるように下駄を鳴らして下りて来た。


「佐吉、大丈夫かぇ」


 おいねは縋るように佐吉に抱き付いた。


「ああ、おいらは大丈夫だが、親分は……」


 と後ろを見ると、三人の夜鷹が嘉平を抱え起こしていた。


「いやだ臭いよ、親分」と女の囁く声がして、出し抜けに「なんだ、漏らしちまってるじゃないか」とけたたましく濁声が笑った。


 橋の上で用足ししようとした小便を漏らして、嘉平は股引をぐっしょりと濡らしていた。夜鷹に笑われて嘉平は言い訳が立たず、男として面目をなくしてしまった。


「下帯を濡らしちまってさぞ寒かろう、わちきが暖めてやるよ。今夜はうちへ泊まりな」


 濁声が優しく言い寄った。


 嘉平は凍った濡れ雑巾のような下帯や股引を見ていた顔を上げて、声をかけた夜鷹の顔を覗き込んだ。いつもの嘉平なら権高に「おいらを誰だと思ってやがる」と怒鳴るものだが、この場合は違った。


「十手持ちがこの様だ。おいらもヤキが廻ったかな」


 嘉平は弱々しく言い、自嘲の笑みを洩らした。


「お前の家はこの近くか? 漏らした小便が冷えて凍えそうだぜ」


 土手を登りながら嘉平は聞いた。すると、女はふわりと笑った。


「この河岸道のすぐ裏筋、中川町の貧乏長屋だけどさ、女の安気な独り暮らしだよ。へっついの炭をほじって湯を沸かし、ご丁寧に体の隅から隅まで拭いてやるさ」


 女がそう言うのを、先に土手を登りだした佐吉は背後に聞いた。


 すぐ後ろでおいねも可笑しそうに声を押し殺してクックッと笑った。土手を登り切ると、佐吉は前屈みに土手を登っているおいねに手を差し出して引き寄せ、おいねの耳元で囁いた。


「先刻、怪の物へ向かって『わっちの佐吉をどうする』って、叫ばなかったか」


 冷やかし半分で言ったつもりだったが、おいねは真剣な眼差しで佐吉を見詰めた。


「確かに言ったさ、それがどうした。とうに佐吉はわっちに絡め取られてんだ。他の女に色目でも使った日にゃ、今度はわっちが祟るよ」


 平然とした顔でそう言うと、おいねは佐吉の首に両腕を廻して爪先立ち、有無を言わさず唇を重ねた。


                                       了



 


 


 




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