時代小説…「冬の風鈴」その2

 いかにも薄気味悪そうに、嘉平は声を落として聞いた。


「年の頃は見ての通り三十手前、泥捏左官職をしていて、この年末は方々の蔵塗りに忙しかったようで。泥捏三年といいますが、五平はちょいと頭は薄いが良い腕をしているとかで、本所深川の左官職の親方からちょくちょく声が掛かっていると聞いてます。いまだに独り暮らしをしているが岡場所にこれといった馴染みの女もなく、近所の居酒屋お多福で呑むのがせめてもの慰みだとか」


 万年町の書役が淀みなく答え、嘉平は一々頷いた。


「お多福ってぇと、殺された連中が行ってた店だな」


 そう言って言葉を切り、しばらく嘉平は腕組みをして考え込んだ。が、顔を上げると、


「おいらはちいっとばかり風邪っ気だ。あとのことは任せたぜ」


 と、あっさりとこの一件の下駄を佐吉に預けてしまった。


「へい」と応えて、佐吉は頭を下げた。


 正月が明けて七草粥も済み、細工職はここしばらくは忙しくない。二、三日暇をくれと言えば、下っ引の真似事をするのかと少しぐらい嫌な顔をされるだろうが、結局は親方は許してくれるだろう。


 佐吉がそう思うのには理由があった。細工職は御禁制の金や銀のみならず、場合によっては抜荷としか思えない瑠璃や珊瑚の細工まで頼まれる。所持しているのが露見すれば重罪だが、四角四面なことを言っていては仕事にならない。それかといって御上の手を煩わせるのだけは何としても避けたい。そのためには普段から岡っ引には逆らわない方が得策だと心得て、嘉平が佐吉を勝手に御用に引っ張り出して使っても黙っていた。


 嘉平親分は押し出しと灰汁の強さで岡っ引として世間を渡っているように振舞っているが、実のところ知恵と度胸はからっきし見かけ倒しだ。混み入ったことを考えるとこめかみが痛くなるのが嘉平の常だった。おそらく、これから黒江町の家へ帰り酒でも呑んで体を温めてから、宵の口に山本町は油堀河岸の岡場所へ敷け込むのだろう。


 嘉平に対して不満を挙げれば切りがない。が、ここで愚痴をこぼしてもはじまらない。「これを」と差し出してくれた小粒を受け取って、佐吉は昼前の自身番を後にした。


 自身番を出ると、まずは今川町河岸に立つ夜鷹を当たることにした。


 去年から今年にかけて仲間が三人も惨殺されている。何かを知っているに違いない、と見当を付けた。だが、三町ばかり仙台堀の河岸道を下って立ち止まった。夜鷹が昼間は何処で何をしているのかさっぱり分からなかった。まさか背中に『夜鷹』と書いた紙を貼り付けて往来を歩いているわけでもなく、長屋の軒下に『夜鷹してます』と木切れを下げているわけでもない。むしろ、夜の闇に世間の目を憚って商売をしているのだから、昼間は普通に当たり前の顔をして世間に紛れ込んで暮らしている。宵闇が女の素性を隠してくれるのを待つしかないか、と佐吉は一つ頷いて目の前の軒行灯に『お多福』と書かれた居酒屋の油障子を開けた。


 中はきれいに片付いているが、まだ口開け前のようだった。そういえば縄暖簾が出ていなかったと思いながら、佐吉は土間を横切って板場へ続く出入り口へ近寄った。


「まだなんだよ、宵の口に出直しておくれ。済まないね」


 尖った女の声が聞こえた。女将のお島か、と念を押して、


「いや、おいらは御用を預かる嘉平親分の下っ引で佐吉って者だ。聞きてえことがある」


 と言うと、「おや、何だろうね」とささやく声がした。


「いま髪結いをしてもらってるとこなんだ。声だけならそこから聞いてくんな」


 廻り床といって、当節では髪結職が家を廻って髪を結う。ただし、女髪結はついでに春を売るとかで禁じられ、髪結といえば男の職業と決まっていた。


「廻り床の髪結って誰だ? ちゃんとした鑑札持ちだろうな」


 髪結も株仲間による締め付けの厳しい業種だ。半端な者が真似事に手を出してお縄になることが多かった。


「旦那、六間床の繁二でさ。いまお島さんは衣紋を抜いて髪を漉き上げてるところでさ、このままで勘弁してもらいやす」


 確か繁二はまだ二十歳過ぎの半人前だ。六間床の親方の鑑札で働いているが、廻り床で稼いでいるとは知らなかった。それともお島とわりない仲になっているのか。そうした疑念が湧いたが、男女の間柄を詮索している暇はなかった。


「昨夜、この店の常連が今川町の河岸で大変な事件に巻き込まれたのは知ってるな」


 佐吉はそれらしく威厳をもって言葉を選んだ。


 板場の奥から「はい」と、しおらしい細い声で応えた。


 昼日中から酒を求める無粋な客かと思ったが、御用聞きと知って態度を変えたものと佐吉は察した。実家の稼業から女は底知れぬ存在だと思っている。一筋縄ではいかない女の性を子供屋育ちの佐吉は痛いほど目の当たりにしていた。


 子供屋とは深川だけの呼称だ。川向こうの御城下では子供屋とはいわないで置屋という。深川には見番がないため、直接料理茶屋から子供屋へお座敷の声が掛かった。


 佐吉は仲町の子供屋橘家に生まれ若い女に囲まれて育ったが、実のところ女が苦手だった。子供屋では小女から住込みで芸や躾を仕込んで磨きを掛け、半玉から一人前の辰巳芸者へと仕上げてゆく。幼い頃から様々な女をいやというほど目の当たりにしてきた。知れば知るほど女は佐吉の理解の域を越えていた。


「今のところ、作次と安蔵が骸となって見付かっている。五平は無事に戻って来たが、猪吉はいまだ行く方知れずだ。どうしてこんなことになったか、心当たりはあるな」


 武骨者を装って、佐吉は御用聞きの物言いを通した。


「だけど、客同志の話しが盛り上がってああいうことになっちまったんで、わっちが夜の夜中に今川町の河岸へ行けとそそのかしたんじゃないんだよ」


 訴えるような、艶めかしい声でお島は答えた。


 声でも女は化けるのか、と佐吉は醒めた思いで聞き流した。


「間違いなく、お多福で気勢を上げた連中が冷たくなったんだ。何か気になることがあったら教えてもらいたい」


「ああそう言えば、猪吉が言ってたっけ。夜鷹が怪の物に狙われるのはたくさんの男の精を受けているからじゃないか、と。すると作さんも安さんもいろんな女と付き合ってたって理屈になるんでしょうかね? 太物屋のご隠居は取り合っちゃいなかったけど」


「何だって、あまたの相手とまぐわった男や女が怪の物に取り殺されるってのか」


 そんな馬鹿な、と考えて五平のことを思い出した。


 五平はおそらくまだ女を知らない。だから、無事に戻れたのだろうか。しかし、そんなことを世間で口走っては笑われるだけだ。


「さあ、終わりました。じゃ、あっしはこれで」


 繁二の声がして道具箱へ片付ける物音が聞こえた。


 すぐに「すっかり待たせちまったね」と声がして、黄八丈の衣紋を直しながら、板場の奥からお島が姿をあらわした。水で結い上げたつぶし島田が粋筋の名残を感じさせた。


「あら、橘家の若旦那じゃありませんか。下っ引だなんてからかっちゃいけませんよ」


 そう言って、お島は慌てたように頭を下げた。


 知らなかったとはいえ、髪結を中断もせず権高に応対したことへの恥じらいか。お島は橘家の世話になっていたわけではないが、花柳界は存外に狭い世界だ。橘家は辰巳芸者を十人前後抱える子供屋の中堅所だった。


「いや、おいらは下っ引佐吉だ。客商売の女将が体の空く時がないほど忙しいってのは知ってるから、何とも思っちゃいねえ。それよか、さっき言ってた太物屋の隠居とは?」


 佐吉はお島の非礼を咎めだてせずに、話の本筋に入った。


 佐吉はねちねちとした粘着質の性格ではない。が、すべて物事は裏と表だ。至極あっさりしている反面、しつこい執拗な聞き込みを苦手とした。佐吉はそうしたけれんみのない男だった。


「永堀町稲荷小路の入り小口、太物屋の老舗、陸前屋甚右衛門さんのことだけどさ」


 と言いつつ歩み寄り、黒繻子襟を整えながらお島は腰でしなを作った。


 まだ板場の奥には髪結の繁二がいるのだろうし、他にも人の気配がした。ここでヤニ下がっては男がすたる。それに、数多の女を身近に見て来た佐吉はそうした手合の女に鼻の下を伸ばすこともなかった。


「永堀町の陸前屋だな」


 と言うなり、佐吉は身を翻した。


 お多福を後にして五間と歩かないうちに、仙台堀に沿った入川に架かる相生橋の反り上がった橋板が目に入った。その橋を渡るとすぐ目と鼻の先が永堀町だ。


 ここ二日ばかり空で風が唸り、底冷えがした。それでも時折、矢のように流れる雲が切れると春の萌芽を感じさせる日差しが降り注いだ。が、それも一瞬のことですぐに日が翳り灰色の空から白いものが横殴りに吹き付けた。昼間近だというのに、少しも暖かくならなかった。


 本所深川は堀割が多く、自然と町中に多くの橋が架かっている。いずれも太鼓の木橋だった。踵に金具を打ち付けた雪駄で行くと橋板が大きな音を立て、冬枯れのような町の寂しさを際立たせた。


 幼い頃から佐吉は太物屋とは縁がない。家に出入りしたのは専ら絹織物を扱う呉服屋だ。太物屋は木綿製品を扱うため、上客は職人や裏店の住人たちだった。佐吉が老舗の陸前屋を知らなかったとしても、ただそうした世間と接点を持たなかったからに過ぎない。


 陸前屋は間口五間の大店だった。甚右衛門が隠居と称して自侭に暮らしても傾くような身代でないことは一目で分かった。


 軒下の短い暖簾の下を入ると、陽を思わせる新しい木綿特有の匂いが鼻に付いた。


「おいらは御用を預かる嘉平親分の手先の者だが、甚右衛門はいるかえ」


 と言って、佐吉は店座敷の帳場格子を見た。そこには小柄な番頭が座っていた。


 一人前の御用聞きならこうした場面でさっと懐から棒十手を引き抜いて見せるものだが、佐吉は下っ引でしかない。もちろん懐に棒十手もない。それを軽んじたのではないだろうが、番頭は狐のような眼差しで佐吉を掬うように値踏みした。そして、土間の小僧に視線を送ると、


「留吉、大旦那様をお呼びしなさい」と言った。


 小僧への言い草から、端っから邪魔物扱いだな、と佐吉は鼻先に苦笑を浮かべた。


 ややあって、甚右衛門が一人で店座敷へ出て来た。五十年配で細身の体躯をしているが、それかといった枯れた老人でもない。一目見て若い女の一人でも囲っていそうな生臭さを感じた。てかてかと脂ぎった顔の色艶は若々しく、白髪混じりの痩せた銀杏髷だけが年寄りじみていた。


「嘉平親分の御用聞きだって?」


 とぼけたように甚右衛門は言って、店座敷の端まで来て座った。


「今朝の騒ぎは知ってるな。昨夜お多福で作次や安蔵と一緒だったと聞いたが、そうだな」


 若造と軽く見られないように、佐吉は肩をそびやかした。


 が、かすかに頬が強張るのを情けない思いで恥じた。


「はい、確かにお多福で顔見知りの方々が惨いことになって、心底驚いていますが」


 甚右衛門の態度は慇懃だが、笑みを湛えた口元から「それがどうしたい」とうそぶく声が聞こえたような気がした。


「ふむ、昨晩そこでなにか皆を惑わすような話を猪吉がしてたってことだな?」


 腕組をして、佐吉は甚右衛門を鋭い眼差しで睨んだ。


 佐吉は五尺五寸と大柄な男に属するが、なにぶんにも二十半ばの若さと整った顔立ちが災いして、甚右衛門を威圧する貫禄はなかった。


「なにも惑わすだなんて。ここ二ヶ月の間に今川町河岸で何人かの夜鷹が殺されたことを話してましたが、世間の噂をなぞっただけで他意はございませんでしょうよ」


 相変わらず、甚右衛門は薄い唇を歪めて口元に笑みを浮かべていた。


「猪吉が皆に語って聞かせた噂話とやらを、おいらにも聞かせちゃくれないか」


 佐吉は何処か人を頭から馬鹿にしたような甚右衛門に反撥を覚ていた。


「それは……、」と甚右衛門は言い淀んで、口元の笑みを消した。


 夜鷹殺しの一件を町方が本腰を入れて探索していない、とあげつらえば明白な御政道批判となる。目の前の若造を鼻先であしらっていたら、飛んでもない蟻の一穴ともなりかねない。たとえ下っ引の若造でも世間には統治する者とされる者の二通りの人間しかいないのだ。迂闊な返答は出来ない、と甚右衛門は眉を寄せて言葉を選んだ。


「いやナニ、他愛ない酒の上のことでして。今川町河岸に冬の風鈴が聞こえるって話でしたよ。寒い夜中に誰が鳴らしてんだろうか、酔狂な野郎もいるものだって話が盛り上がりましたが。まさか、鏧(きん)を風鈴と聞き違えるなんて」


 そう言って、甚右衛門はじわりと脇の下に汗を感じた。


 「フム」と佐吉は心持ち首を傾げた。双眸がキラリと光った。鏧とは仏具の名で仏壇の前に置いて、経をあげる前などに叩く小さな鉦のことだ。しかし、音の正体が鏧だとは初めて耳にした。この男は何かを知っている、と佐吉の直感が教えた。


「誰から聞いたんだ?鏧のことを」


 声を落として、佐吉は甚右衛門を見詰めた。


 かすかに、甚右衛門の目に動揺の色が走った。


「それは鋳掛屋の猪吉から…」


 と言ったきり、口を閉じた。甚右衛門の瞼がピクッピクッと動いた。目の前の勘働きのする下っ引を舐めてはとんでもないことになる。甚右衛門は用心深く佐吉を見詰めた。


「甚右衛門、お前の落ち着き払った態度はどうにも解せない。お前が下手人とはいわないが、五平の話を聞いた限りじゃ尋常な事件じゃねえのは確かだ。怪の物が関わってるとしか思えねえが、お前は何か知ってるんだな、今度の事件のことを」


 佐吉は甚右衛門を追い込むように畳み掛けた。


 どう返答するのか、と佐吉は座ったままやや顔を俯けた甚右衛門をじっと見詰めた。


 甚右衛門はためらうように二度三度と小さく首を上下させて、佐吉を見詰めた。


「手前陸前屋甚右衛門は伊達藩士寺本兵馬の末裔にございます。今から百年近くも昔の元禄十二年、伊達藩が仙台堀開削の賦役を幕府から仰せ付かった折り、先祖は作事方奉行に任じられたようで御座います。しかし、どうしたことか賦役を無事に終えた翌日に自害して果てました」


 いきなり始めた甚右衛門の話に、佐吉は血が騒ぐのを感じた。


「それで?」


 と、佐吉は落ち着いた様子を繕って聞いた。


「自害後、寺本家は家名断絶、禄も召し上げられました。やがて、兵馬の子孫が仙台堀のほとりで暮らすようになり、私の代まで変わらずこの地で太物屋を商っております」


 淡々と甚右衛門は言葉を続けた。


 太物屋の扱う主な品は作業着だ。堀割開削の作事方奉行をしていたという寺本兵馬とあながち見当はずれの商売でもない。


「異変はずいぶん昔からありました。私の代になるずっと以前からのことで御座います」


 ふっと息を吐き、甚右衛門はためらいの眼差しで佐吉を見詰めた。


 不意に冬の日差しが陰り、一瞬にして店座敷は夕闇を思わせる薄墨色に沈んだ。一陣の風が吹き、軒下暖簾が激しく揺れて雪が降り込んだ。


「物心付いた頃から、家の仏壇のお灯明を絶やしたことはありません。自害して果てた寺本兵馬の供養を怠りなく致しておりますが、それでも時折異変が起こるのです」


「異変とは、どのような」


「道ならぬ恋に身をやつした屋敷の者が変死することで御座います」


「変死とは?」


「男であれ女であれ、下腹部を喰い千切られるので御座います。御上には病死と偽って届け出て参りましたが、実の所は怪の物に喰い殺されたので御座います」


 佐吉は背筋に冷たいものが走るのを感じた。甚右衛門の語る話は今朝見た死骸のありさまとぴたりと符合していた。怪の物の仕業だったんだ、と心の中で叫ぶ声がした。


「それで、怪の物の正体は?」


 乾いた声で佐吉は問うた。


「おそらくは、寺本兵馬の怨霊でないかと……」


 辛そうに顔を歪めて、甚右衛門は言った。


 遠い先祖の怨霊がいまもこの世に祟っている、というのは末裔として耐え難いものだろう。甚右衛門は肩の間に首を沈めて、辛そうな眼差しで佐吉を見上げた。


「怪の物や祟りをお縄にするってのはおいらの埒外だ。ここは怨霊を鎮めて、何とか祟らないようにすることは出来ないのか」


 佐吉は自問自答するように呟いた。


 相手が怨霊では町方が十手を振り翳してみてもはじまらない。それかといって町人が殺されて「怨霊の仕業だから手の付けようがねえや」と言って捨て置くわけにもゆかない。


 ここは何としたものか、と考えあぐねていると、甚右衛門が「手前どもの家に一人の願人坊主が逗留していますが……」と何かを怖れるように言った。


 願人坊主とは家々を門付けして歩く乞食坊主のことだ。本来は東叡山の配下に属す僧侶をさしていたが、時代が下るとともに法衣とも見分けのつかない縫依弊髪で門付けに歩く、うす汚れた乞食坊主をそう呼んだ。


「願人坊主だと? その男はいつ何処からやってきたんだ」


「ここ十日ばかり前で御座いましょうか、店先に立って『この家から立ち上る妖気が見える。それを鎮めねばならぬ』と申されまして、いまも土蔵にこもってひたすら念仏を唱えておられます」


「その願人坊主に会わせちゃもらえないだろうか」


 そう言うと、佐吉は甚右衛門を促すように店座敷を回って土間へと向かった。


 靴脱ぎ石から土間に降り立った甚右衛門の後に付いて、佐吉は薄暗い土間を歩いた。


 土間には氷のような冷たい空気が淀んでいた。所々に穿たれた明かり取り窓から障子越しの弱々しい冬の日差しが落ちて、濡れたような土間をほの暗い中から白く浮かび上がらせていた。


 それにしても人気のない陰気な屋敷だ、と佐吉は思った。佐吉が育った子供屋にはむせ返るほどの脂粉と女の匂いが漂っていた。橘家に遊ばせておくような余分な部屋はなかったし、家の何処からか絶えず女の鈴を転がすような声が聞こえていた。育った家とこの屋敷との間には際立った相違があった。


 間口が広いだけではなく、それ以上に奥行きの深い屋敷だった。この地所は仙台堀河岸通りから裏町の海辺大工町まで突き抜けているのではないか。佐吉はそう思いつつ裏の勝手口を出て、甚右衛門が立った裏庭の土蔵へと歩み寄った。


 江戸は火事が多い。度々大火に見舞われたため、商家は大切な商品を火から守るために土壁一尺の土蔵を建てた。陸前屋の土蔵もそうした役割を目的に造られたものらしく、時代がかっているものの白漆喰で塗り固められた堅牢な建物だった。


 分厚い戸は開きっ放しにされ、腰板の上に金網の張られた引き戸があった。


「上人様、少し宜しいでしょうか」


 甚右衛門は土蔵の中へ声を掛けた。


 佐吉も肩越しに土蔵の中を覗いた。暗い土蔵の奥に二尺四方の窓があり、そこから洩れる日差しが唯一の明かりだった。


「どのようなご用件でしょうか?」


 五分に伸びた胡麻塩の頭を巡らして、月海は入り小口へ顔を向けた。


 その容貌は、魁偉だった。


 年の頃は四十の半ばか。毛むくじゃらな剛髭を蓄えた角張った顔に、浅黒く日に灼けた頬は脂光りしていた。その顔を見て、佐吉は寺の仏画に見た達磨大師を思い起こした。月海の睨み付けた大きな双眸に異様な力を感じた。いや、射抜くような眼差しだったというべきだろう。月海は大きな顔に大造りな眉や目鼻、それに口が整然と配された怒りに満ちた福笑いのような容貌をしていた。佐吉は月海の団栗眼の底が怪しくも光を湛えているのに気圧されるのを感じた。


「このお方は御用を預かる佐吉さんで、陸前屋にゆかりのある怪の物についてお聞きしたいとのことで御座います。いかがでしょうか」


 甚右衛門は恭しい物言いで問うた。


 土蔵にはもちろん火の気はない。凍えるような冷気が淀んでいた。その土蔵に坐して読経を唱えていた月海は随分と草臥れた薄墨の衣しか身に纏っていなかった。


「うむ。勘違いしてはならぬ。怪の物は怪にあらず。人の心そのものなり」


 月海は禅問答のような言葉を返した。


 佐吉は憮然として直に聞き返した。


「お上の御用で聞いている。妙なことを言うな。怪の物についてだけ神妙に答えろ」


 馬鹿にしている、と思った。若造と甘く見たのか。佐吉は眉根を寄せて胸を反らした。


「いかに言葉を尽くしたとて、お分かりいただけまいて」


 月海は突き放すように言った。


 多少はむっとするものを覚えたが、おそらくその通りなのだろう。


 怪の物の存在をいかに言葉を費やしてなぞったところで、全体像を把握するのは困難に違いない。佐吉はそう思って不快を露にした自分を恥じた。


「怪の物が人の心そのものとは、いかなることだ?」


 いくらか言葉を和らげて、佐吉は土蔵の敷居に歩み寄った。月海は床に両手を突いて、体の向きを変えて佐吉を見上げた。


「諸国行脚の途次、江戸へ入ったのが一月ばかり前のことであった。たまたま拙僧が永代橋にさしかかった折り、ただならぬ妖気を感じて大川を渡り、導かれるようにして陸前屋の門口に立ったのでござる。ご隠居より聞いたところ、陸前屋は随分と以前より怪の物に取り憑かれ、難渋しているとのことであった。拙僧の力で退散するとも思われぬが、法力の及ぶ限りご尽力致したく、この土蔵に逗留させて頂いております」


 律義な物言いで月海は応じた。しかし、怪の物を訊ねた佐吉の答えにはなっていなかった。が、先に月海から言葉では言い表せないと釘を刺されていた。その説明だけで、佐吉は何となく腑に落ちた。


「今後、祟りをなくすにはどうすれば良いのだ」


 佐吉は落ち着いた声で訊ねた。


 怪の物が下手人ならお縄にすることは出来ない。せめても、人様に祟らないようにしてこれ以上累を及ぼさないことだ。


「土蔵の書棚を調べたところ、古い書簡綴りから怨霊の正体が分かり申した。手短に話せば、作事奉行として寺本兵馬は大命を帯び、新妻を仙台に残して勇躍数百名の者を率いてこの地へやってきた。全長約一里半に幅二十間の堀割をこの地に開削するのは難儀な事業だったろうと思われる。藩は幕府に賦役を命じられ名誉を懸けてと巨費を投じたからには失敗は許されない。まだ三十を過ぎたばかりの寺本兵馬は若さにものをいわせて馬車馬のように働いた。当初、郷里の妻から頻繁に文が来ていたものが次第に間遠くなったのにも、さして気に留めていなかった。いや、気に留める暇すらなかったのじゃろう。しかし一年半後、開削事業が無事に成ろうとした頃、妻の不義を知らせる文が家の者からもたらされた。悲嘆にくれた寺本兵馬は半狂乱となり、江戸藩邸の座敷牢に押し込められお役を解かれた、とある」


 そう言うと、月海は佐吉を鋭い眼差しで見詰めた。


「その話、怪の物退治とどのような関わりがあるというのだ?」


 佐吉は月海を睨み返した。


 新妻の不義密通なぞ、世間に珍しいことではない。


 芝居狂言の種にいくらでもなっている。かつて分別盛りの江島生島だって、大奥を巻き込んだ密通騒動を引き起こした。そのために当代の芝居一座が取り潰しになった。寺本兵馬の怨霊がことさらに強く、いまも男たちと枕を交わす夜鷹を目の仇に喰い殺すなぞ愚の骨頂だ。しかも、この度は夜鷹だけでなく町人が二人までも殺されている。


 月海の話が本当なら随分と自分勝手な怨霊だ。妻に裏切られたのは哀れだが、世間には自分の体を売るしか他に売り物を持たない女だっているのだ。


「拙僧の話がご納得できないようじゃな。そなたはまだ独り者のようじゃに、詮なきことよ。江戸が夜の闇に包まれると、怪の物は仙台堀に甦る。そなたの目で確かめることじゃ」


 突き放した物言いをして、月海は瞑目した。


 



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