時代小説…「冬の風鈴」その0

 凍えるような木枯しが夜空でうなりを上げている。


 油障子の桟がガタガタと鳴り、天井から吊り下げられた八間の明かりが揺らめく。


 十人も入れば肩が触れ合いそうな、飯台一筋っきりの土間にいつもの面々が集っていた。


 界隈の噂を酒の肴に興じていたが、飯台に突っ伏していた五平がいきなり顔を上げた。


「その話なら、おいらだって知ってら」


 と鋳掛屋猪吉が披露していた噂話に割り込んで、呂律の廻らない巻き舌で喚いた。


「ひとけのない佐賀町米蔵通りの夜道を歩いてると、何処からともなく『うらめしや、表は古着屋』って声がするってんだろう」


 そう言うなり、五平はひきつるようにクックッと笑った。


 いきなり五平に混ぜ返されて、橙色の八間の明かりの下で額を寄せ合っていた男たちは鼻白んだ顔を見合わせた。


「この野郎、酔っ払ってるのなら寝てろ」


 そう言うなり五平の鉢を小突こうとした畳職作次の手をやんわりと掴んで、お島が下膨れの顔を小さく左右に振った。その細めた目が「取り合うんじゃないよ」と言っていた。


 五平の酒は喧嘩酒だ。普段はおとなしく一心に泥捏ねをする左官だが、いったん酒が入ると相手構わず喧嘩を吹っかける。が、喧嘩はからっきし弱く、大抵は殴られ損で袋叩きにあって地面に長くなってしまうのだ。それでも性懲りもなく火ともし頃になるとお多福の縄暖簾を掻き分けて、定席のように入り小口の飯台に取り付く。


「ほおらね」


 と、お島は見上げた作次に目配せした。


 空き樽から立ち上がらんばかりだった五平はいい気なもので、怪気炎を上げて声を張り上げたかと思うと飯台に突っ伏して鼾をかきはじめた。


 仙台堀万年町の居酒屋お多福には常連客がついて、いつもそこそこ賑わっていた。三十年増の女将が目当てなのか、釜の火を落とし暖簾を仕舞うまで長尻を決め込む者ばかりだ。


 その夜も、天井から吊るされた八間の明かりの下、集まっているのは顔馴染ばかりだった。みんな気心の知れた日銭稼ぎの者ばかりだが、一人だけ毛色の違う客がいた。永堀町の隠居が奥の切り落としの板の間に片足を土間に垂らして腰を掛け、炙った鱈の干物を肴にちびちびと猪口を舐めていた。


 永堀町の隠居は名を甚右衛門といい、仙台堀で木綿を扱う老舗太物屋の主人だった。いまでは家業を一人息子夫婦に譲って悠々自適の気ままな暮らしを送っているが、若い頃に連れ合いを流行り病で亡くしたっきり後添えも貰わず、身辺にこれといった女の影はなかった。その代わり、お多福で遠慮がちにお島の容姿を盗み見するのがせめてもの目の法楽のようだった。代々町役まで勤め格式を誇る家柄だけに、妾を持つように勧めた世話焼きもいたが、五十過ぎの今まで若い女を囲うことはなかった。


 お島は大年増といわれる歳まで、深川芸者としてお座敷に上がり粋な節回しで艶っぽい喉を聞かせていた。盛りの二十歳前後の数年は毎晩のようにお座敷から声がかかり、結構な売れっ子だった。しかし、女が歳を取ると贔屓にしていた旦那衆も歳を取り、お座敷遊びにも出掛けなくなった。客層が代替わりして若返ると、いきおいお座敷に呼ばれるのも若い芸者ということになる。子供屋の大部屋で声も掛からず待ちぼうけを食うのに嫌気がさして、三年前に芸者を廃業して居酒屋を開いた。


 お多福という屋号の通り、お島は下膨れのお多福だ。すっきりとした眉に整えているが、元々はくっきりと浮き上がるような濃い地蔵眉だった。


「飛んだ茶々が入ったが、続きを聞かせろよ」


 叩き大工の安蔵が乗り出すようにして、斜向かいで猪口を傾けている鋳掛屋の猪吉に声を掛けた。


 先刻から常連客は猪吉の周りに集まって、この界隈で持ち切りになっている噂話に耳を傾けていた。その話というのはこのお多福のちょいと先、仙台堀が大川へ注ぐ今川町辺りの土手下で闇夜の底から風鈴が聞こえてくる、というものだ。


 夏の風鈴、秋の風鈴、というのならそれなりに風情があるというものだが、いまは木枯らしの吹き荒ぶ凍てつく冬だ。風情のあるはずもなく、誰かがいたずらに橋桁か何処かに吊るして鳴らしている、というのでもなさそうだった。


「ところが、対岸の伊勢崎町にはまるっきり聞こえないってんだから不思議じゃないか」


 猪吉は声を殺して呟くように言って、口を半開きにしたまま男たちの顔を見廻した。


「チリンチリンと風鈴が聞こえるだけなのかい?」


 安蔵は気抜けしたように声をあげた。


 そんなんじゃ大した事ない、といわんばかりの言い草に猪吉がむっとした。


「それだけなら、こうして御大層に披露しないさ」


 噂好きな裏長屋の女たちと同等に扱われたのでは沽券に関わる、とばかりに猪吉は眉尻を吊り上げた。与太話を酒の肴にしゃべっていると思われたのではかなわない。この鋳掛屋猪吉はそんな軽々しい江戸っ子と十杷一絡げにしないでもらいたい、と勿体をつけて目を剥いた。


「風鈴の音を聞いた夜を境に、夜鷹がもう何人もいなくなっちまったんだぜ。どうやら、とり殺されちまったようだってんだ」


 猪吉は「殺された」とだけいったが、実の所はむごたらしくどの夜鷹も下腹部を抉り取られていたのだ。遺骸を検死した定廻同心たちは惨たらしさに目を背けたが、夜鷹が三人も殺されたというのに岡っ引たちは本腰を入れて動こうとはしなかった。


 元々、夜鷹は御法度だ。むしろ夜鷹の数が減る方が町方役人にとっては好ましいことだ。御上が下手人探索に本腰を入れて、庇護するに値しない存在なのだ。


「ちょいと聞くが、殺されるのは夜鷹と決まってるのかい」


 珍しく、お島が土瓶口を差した。


 いつもは男たちの与太話を澄ました顔で聞き流しているが、夜鷹が消えると聞いて心中は穏やかでいられなかった。何しろ夜鷹もお島も同じ女だ。


「おや、お島さん。もしやお前さん、誰ぞに操を売ってるのかい」


 猪吉が真顔で揶揄した。


 顔を突き合わせている男たちの目の色が変わった。


 お多福へ毎晩のようにやって来るのは何かの間違いを期待してのことだ。もちろん板場を一人で切り盛りしている包丁人の半次とお島が出来ているのは誰もが知っている。知ってはいるが、半次は所詮お島の使用人で五十近い老人だ。女ならやりきれなく寂しい夜に、心に迷いの生じる時だってある。半次とお島が間深い仲になったのは本気ではなく、一時の気の迷いというやつだろうと、常連客は心の中で密かに願っていた。それをこともあろうに猪吉が「操を売っているのか」とお島に言ったのだ。


 お島がいけ高にどんな台詞を吐くかと、男たちはお島の顔をじっと見た。が、お島は肩の力を抜くように笑みを浮かべてフッフッと口を手で覆った。


「わっちが体を売ろうにも、誰も買っちゃくれないさ。もう三十路間近のお婆さんだよ」


 さも妖艶な笑みを浮かべて、お島は呟いた。


「それなら、おいらが買ったぜ!」


 と、間髪入れず叫んだのは左官の五平だった。


 いつのまにか五平は起き上がり、大口を開けて右手を高々と上げていた。


「すっとこどっこい、お島さんの大切な操は手前なんぞに安売りはしねえんだとよ」


 今度こそ誰にも止める間もなく、作次の平手が五平の頭をビシャリとはたいた。


「なにすんだい」


 と怒鳴り、五平は目を剥いた。立ち上がったはずみに飯台の空の猪口が転がった。


「おやめよ。騒ぐんなら、表へ出とくれ」


 お島が声を張ると、二人は毒気を抜かれたように座り込んだ。


 安居酒屋の酒は三割方水増ししてある。良い塩梅に酔っていても凍てつくような夜風に吹かれれば、あっという間に酔いは醒めてしまう。それよりも、お島と一緒になって猪吉の他愛ない世間話を聞く方がまだましというものだ。


「どうやら、二人以上の男の精を受けてた女が怪の物に喰われるってことだぜ」


 わけ知りな顔をして猪吉は静かに言った。


 冬のしじまに吸い込まれるような声だった。みんなは顔を見合って押し黙った。


 この江戸で、生涯に一人の男とだけしか枕を交わさない女なんて、何処にいるというのだろうか。操を穢されて死を選ぶのは武家の子女だけだ。大抵の町娘は所帯を持つまでに十四、五で男を知り、十七、八までに身を焦がすような恋を経て大人になる。善し悪しは別として、魅力のある娘ほど若い男たちは目の色を変えて死にもの狂いで口説き、夜這いをかけるものなのだ。


 お島だって、と男たちは女将の色白の横顔を好色な目で盗み見た。辰巳芸者でお座敷に出ていた頃には数々の浮き名を流していたことを知っている。だからこそ、女将の前で肩肘張らずに気安く下世話な軽口だって叩けるのだ。


「やだよ、わっちの顔に何か付いてるかぇ」


 お島は気後れしたように男たちの酔眼を見回した。


 その折、切り落としの座敷でただ一人で黙って猪口を傾けていた隠居の甚右衛門が「そろそろ、」と男たちにしゃがれた声を掛けた。


「明日がないじゃなし、今夜はここらで……」


 もうお開きにした方が良いだろうよ、との物言いにお島たちは顔を見合わせた。


 他愛ない世間の噂に暇を潰すのもよしにしな、と甚右衛門の眼差しは叱っているようだった。甚右衛門にはそうした正体の知れない所があった。


 常連客の下世話な噂話や色噺には金輪際のってこない。むしろ、窘める側に廻るほどだった。この五十の坂を越えた老人に何があったのか、と飯台を取り囲んだ若者たちに鼻白んだ思いを抱かせた。


 お開きにしようとの言い草に、それだけで水っぽい酒の酔いは五割りがた醒めてしまった。もうじき四つの鐘が鳴るだろう。いわれるまでもなく、塒へ帰る頃合いだと誰からともなく腰を上げた。


 甚右衛門も含めて、五人ばかり。肩の間に首を埋めた男たちが腰高油障子を開けた。縄暖簾を掻き分けてもつれるように寒風の吹き荒ぶ河岸道へ出た。


 店の前からさっさと甚右衛門は仙台堀の河岸道を下りだした。いつものように真っ直ぐに家へ帰るようだ。仙台堀に沿って相生橋を渡った取り付きの永堀町の太物屋が彼の家だった。


 四人の男たちの暮らす長屋は万年町の裏路地にある。真っ直ぐに帰るのなら甚右衛門一人だけが反対方向だが、男たちは口々に「その冬の風鈴ってものを、ひとつ聞いてみようじゃないか」と叫びつつ、甚右衛門とともに一団となって河岸道を下った。男たちのしどろもどろの雄叫びは木枯らしに掻き消され、晴れ上がった夜空に鎌のような月が昇っていた。


 



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